偽終止 - 4 -

 あのあとどんな顔をして湯船に浸かったんだか、覚えていない。言葉少なに帰路に着き、河川敷を通ると、つぶれた雑貨屋のあとに入るテナントが古着屋とアクセサリーショップだと張り紙がされていて絶句した。
 斎も盤介もその日から親戚の家に出掛けたので、話はできていないままだ。酒豪の祖父に注がれるだけ飲み干して、陽の高いうちから炬燵で寝落ちてしまった。

 また夢を見た。いつかの雑踏の、交差点の真ん中に立って大画面に映し出される映像を見上げている。ざわめきが充満してどこから湧いてくるのかわからない人波の中にその姿を見つけたとき、最初に目に入ったのは背負われたギターケースだった。
「…SATOI」
「あれ? おれのこと知ってる人?」
 知ってるだけなら日本中にいるだろうが。こんなに無防備に素顔をさらして堂々と歩いて良いものなのだろうか。いいのか、夢だし。
「この前会った、ここで」
「そうだっけ」
「エビフライのうた、俺も好き」
「………ああ! おれにそっくりの死んだ恋人がいるって話をした人? いやでも顔違うな…インパクトあったから覚えてる」
 遠慮や配慮をすべて切り捨て、本題に入る。もうじき目が覚めてしまいそうな、むずむずした予感があった。
「なあ、あんた、何であいつにあんなこと言ったんだ」
「あんなことって?」
「同じ顔をした自分に何を望むのかって」
 深いまばたきを一つ、双眸を細めてSATOIがふっと笑う。見慣れた在河のものによく似た笑顔。
「あのひとが、確かめてほしそうだったから。…自分の心って意外と自分じゃわからないものじゃない?」
 謎かけのような回答を受けとめあぐねていると、SATOIのほうからずいと身を寄せてきた。
「ねえ、エビフライのうたってどんなの? 歌ってみて。さんはい」
「歌手の前でアカペラってどんな苦行だ。…そうじゃなくても、歌わない。俺には歌えない」
「なんで?」
「あれは、斎とお前だけのうただから」
「…それは、死んだ恋人であっておれではないよね」
「でも、あいつと…在河とSATOIは、つまりあんたはひと続きで、切り離せるもんじゃないだろ」
 二重と奥二重の、ややアンバランスな切れ長の目をまるく見開いた。ようやく目の前の相手の感情を揺さぶることに成功したようだ。何かを言いかけてうすい唇がひらき、しかし視界はたちまち白くけぶっていったので声を聞くことは出来なかった。

 先に家に戻りたい、と両親に告げて一人でバスに乗った。半端な時間だからか乗客は少なく、いちばん後ろの広い座席の窓際に座る。いくつかの停留所を経て、通っていた高校のそばを通った時、はじめて胸がやぶけそうに痛んだ。これまであの場所に、郷愁など覚えたこともなかったのに。
 携帯を取り出して、斎にメッセージを送る。すぐに返信があった。昨日のうちに戻ってきていたらしい。
 逃げんなよ、と打とうとしてあんまりかと思い直し、代わりに適当なスタンプを送ったが素直な気持ちが漏れていたらしい。
【何でゴルゴ? 怖い】
【ごめん】
 家の最寄りのバス停で降りると、ガードレールに凭れていた斎が顔を上げた。
「おかえり」
「おう」
「いい天気だし、話するなら外がいいなと思って待ってた。…はい」
 あたたかいコンビニのコーヒーを手渡される。そろりと何かを確かめるように上目遣いで覗きこまれ、
「ミルクと砂糖は」
 と反射で呪文のように口にした。斎がにんまり笑う。
「ないでーす。なんて、嘘。それカフェラテだし、砂糖も足してるよ」
「…飲めないわけじゃねーぞ。知ってるだろうけど」
「うん。ぼく、夢の中だと盤介への当たりがだいぶきついよね」
「…俺の中の隠れた願望の表れかと思って正直びびってた。実はMだったのかって」
「はは」
「それにお前、夢だと俺のこと、盤って呼ぶだろ」
「……うん」
「あれが、嬉しかったから。だから願望で、俺の夢なんだろうな、…と思ってた、わけだ」
 斎はぴたりと足を止めて、隣を歩いていた盤介の顔をまじまじと見た。
「信じられない」
 鈍感と言われて久しい己と違って、斎はこと他者の感情を汲むことに長けている。盤介がにじませた声音を正確に読み取り、確かに動揺して、そっと睫を伏せた。
「……間が悪いって、葵にもさんざん言われた」
「ほんとだよ…」
 二人の足は、自然と川のほうへ向いていた。蓋を外したコーヒーの湯気が向かい風に流されて、吐く息の白と混ざって消える。暫し落ちた沈黙のあいだに斎は心の内を整理したらしかった。こちらを振り返る眼差しは、もういつもの穏やかな色に戻っている。
「あれ、ぼくは、ぼくの夢だと思ってた。今もそう思ってるよ。だって自分で願った通りのことだもん」
 川を渡る橋の真ん中で、欄干から身を乗り出すようにして話す。見下ろす先にあるベンチの場所は夢で見たのと同じ位置にある。
「敏依がいなくなってから、不思議なことばかりだ」
 斎の視線はざあざあと流れる水面に固定されたまま、ひとりごとのようにつぶやいた。同じ姿勢で隣に並ぶ。
「なあ斎。お前あの夢の中で何をしようとしてる?」
「うん? うーん…やっぱりわかる?」
「当ててやろうか」
「結構です」
「歌手の、SATOIの夢を見たとき、何かあったろ」
 先ほどよりももっと動揺をあらわにした斎は「えっ」「なんで」と赤くなったり青くなったりしながら小声でぶつぶつ呟いた後、
「……ていうか、どこまで同じ夢を見てたの?」
 もう降参、と両手を挙げてへらりと情けない笑顔を寄越した。

 バルーンフェスタの夜間係留を見てみたい、と現実に言い出したのは在河のほうだったらしい。
――じゃあ、今年の誕生日プレゼント、その旅行がいいな。
 熱気球が、夜闇の川面にずらりと並んでライトアップされるショーの広告を見かけて気に入り、斎も二つ返事で承諾した。綿密な計画もないまま宿と飛行機と新幹線を押さえ、九州の地を踏んだ。わざわざこのイベントのためだけに毎年臨時の駅が設置されるというから凄い気合の入れようだ。
 司会者の合図で一斉に気球に炎が灯され、バンドの生演奏にあわせて夜を彩っていく光景はひどく抒情的な光景だった。
 ふたりとも、冬の花火を初めて見た。
 翌朝は、少し離れた場所から競技を見た。
 まだ陽も昇りきらないうち、うっすらと白んだ朝焼けの、淡いグラデーションに次々とカラフルな気球が浮かび上がっていく。
 幻想的な朝の光景をまなうらに浮かべているのか、何度もまぶたを閉じながら斎は話し続けた。
「ちょうどぼくたちが見ていたエリアで、…BGMに敏依の昔の曲が流れたんだ」
 斎がワンフレーズを口ずさみ、まばたきと同時に涙をこぼした。盤介にはあまり聞き覚えのないメロディ。
――夜明けだ…。
 在河は一言、つぶやいたきり、曲のあいだじゅうずっと黙っていたらしい。在河にとってそれは、ひどく特別な光景だったのだという。
「それから、宿に戻ってごはん食べて、ひと眠りしてからチェックアウトして…駅に向かってる途中に、あの事故に遭った」
 すっと背中をいやな汗が伝う。
「ああ、お前、…思い出してたんだな」
「敏依じゃないSATOIに会った夢を見た日に、全部思い出した。…ぼくのせいなんだ、盤介。事故に遭う前、ぼくがあんなこと言ったから」
「…あんなこと?」
 誕生日プレゼント何がいいですか、今から買いに行きますか、と問われた斎は迷わずにこう言った。
――いつか、敏依の…SATOIの歌がもう一度聴きたい。
 それは何年も胸の奥にしまいこんでいた望みだった。「今なら言っても大丈夫だと思ったんだ。…だんだん明るくなっていく空を見上げてた敏依、すごく清々しい顔してたから」
――もう一曲、先輩のための曲が書けたらそれでもう人生終わってもいいなあ。
 何それ、と斎は怒った。
――そんなこと言うなら一生書かなくていいよ。終わりなんてこなくていい、縁起でもない。
 そう返した矢先、居眠り運転の車が歩道に突っ込んできて事故に遭った。
「車道側にいたぼくを、敏依が引っ張って抱き寄せてくれたんだ。…覚えてるのはそこまで」
 庇われた腕をぎゅっと抱きしめるようにして、斎はしゃがみこんだ。丸まった背にかける言葉を探しながら、盤介は、誰が何のためにこの夢を自分に見せていたのかわかった気がした。
 どうして在河の遺体が消えてしまったのかも。
「斎、」
「…やだ!」
 斎はとっくに知っていたのか、子どものようにぶんぶんと首を横に振る。風が急に強くなった。
 ひどく残酷だ。言う自分も、言われる斎も、…言わせる在河も。
「…お前が終わっていいって言ってやらないと、在河はいつまでも夢の中だ」
 しゃくりあげながら斎が悲鳴のように細い声で叫んだ。
「いいもん、それでいい、一生、夢で一緒にいる」
「斎!」
「曲を作ってほしいなんて言わなきゃよかった。あのとき素直に買物に行ってたらよかった。九州に旅行なんて行きたくないって言えばよかった。誕生日なんて祝わなくていいって――」
 聞いていられなくて、無理やり両の手首を掴み、抱きしめた。コーヒーが地面にこぼれ、染みをつくる。
 胸元に熱いしずくがいくつもこぼれて濡れていくのがわかった。
「ぼくと、恋人にならなかったら良かったんだ――」
 気の遠くなるような数の選択肢の果てに「今」があるとして、斎が選んだのははじまりのイフだった。
 だから何度も言っていたのだ。夢の中で。
 敏依とは付き合わないよ、と。

 どれくらい抱き合っていただろう。慟哭がおさまってゆっくりと斎が顔を上げる。目も鼻も真っ赤で、ひどいものだった。鼻水と涙にまみれた己のシャツも。
 盤介はおもむろに口を開く。どうするかは、もう決めていた。
「斎、行くぞ」
「……どこに?」
「…夢の中へ」
 行ってみたいと思いませんか、だ。
 何でそうデリカシーがないの、とまた泣かれた。

 いつものバーとよく似た空間だった。床も壁も真っ黒に艶めいている。脚の長いスツールが二脚並ぶあいだに丸テーブルがあり、ウイスキーの瓶と水、炭酸水、氷のぎっしり詰まったアイスペール、グラスがふたつ置かれている。
 そして、小さなステージがあった。
 立ち尽くしていると、扉を開けてげんなりした顔の斎が入ってきた。
「……ひどい目に遭った」
「でも寝れたろ」
「お前が父親だったらぼくは一生夜泣きする」
 いやだ寝たくない、と暴れる斎を押さえつけて酒を飲ませ、ヒーリング音楽を流しながら日本国憲法条文を読み上げるという超荒業でもって寝かしつけた。夢で再会できて何よりだ。
 父親、という単語に同じものを連想したのか、ぎくしゃくと視線をさまよわせた盤介を見て斎はふっと笑う。
「気づいたら盤のことが好きだったからほとんど悩まなかったんだけど。女の子に生まれたかったなって思ったことが二回だけある」
 あんなに飲んだのに(飲ませたのに)てきぱきとグラスに酒を注ぎ始める。あまりにさりげなく言われた単語を反芻したせいで、止めるタイミングを失ってしまった。
「…おい、好きって初めて言われたぞ」
「そこ今拾う? 言っとくけど一回目は、お前がばかげた妊娠騒動のあとに全然違うタイプの女の子連れてうちに来た時だから。かわいいだろ~卒業したらこいつと結婚する~って鼻の下伸ばしてやって来て、二か月後には別れてるとかバッカじゃないの」
「夢だけど夢じゃないってわかってもお前容赦ないな…」
「自業自得」
 飲んでも酔わないのか、まあ酔ってもいいか、と渡されたロックを呷る。味覚は現実に忠実らしく、舌が灼けるような感覚はやっぱり好きになれない。喉の裏から熱くなって顔をしかめていると、ひょいとグラスが奪われた。
「ハイボールにしてあげよう。…二回目は、事故のあと」
 器用に果物ナイフを使ってレモンを切ると、あたりに苦くてみずみずしい香りが広がる。
「ハイボールだって苦ェだろ。事故のあとに?」
 しつこいくらいにハイボールの話題を引っ張りながら本題を焦らして遠回りに会話をする。家族のように過ごしてきた相手とこんな言葉遊びをするのは初めてだったが、曖昧にすることで見えてくるものもあるのだと今ならわかる。
「じゃあ起きたらジンジャーハイボール作ってあげる、あれ甘いから。…もしぼくが女の子だったら、敏依と子どもを作れたのに。そうしたら、…この先敏依がいなくても、会いたいなあって思いながらでも、敏依の生きた証と一緒に過ごすことを頑張れたと思う」
 まるで今はもう頑張れないというように聞こえて、かっとなった。けれど、髪をかけた右の耳にエメラルドが光るのを見てしまうと、ちっぽけな怒りさえ場違いな気がして、すぐに消えた。
 ふたりともが視線を落としたその時、すべての照明が消えて部屋じゅうが真っ暗になった。
 眩い光源が四方からいっせいにステージに射す。集まっては散らばってくるくると泳ぎ、一本の線になり、やがてスポットライトひとつきりが残った。
 スタンドマイクの向こうに、SATOIが立っていた。斎が息を止めてステージを見つめる。
 幾つかのコードを確かめるようにギターを鳴らす。明度を抑えたライトとアコースティックギター、ただそれだけのシンプルなライヴが密やかに幕を開けた。
 斎がステージに近づいていく。盤介は、離れたこの場所で座ったまま、向かい合う二人を見ていた。
 メロディアスな響きの強いサビになって、それがあの時斎が歌ってみせた曲だとわかった。夜明けの歌だと言っていた。音の良し悪しも、込められたメッセージも盤介にはわからないが、きっとそれでいいのだ。
 これは、斎のためのライヴだから。
 SATOIの曲が大流行した時、盤介は中学生らしく洋楽にかぶれていたので、その演奏をまじまじと目にするのは初めてだった。
 胸中のすべてを吐き出して音に託すようにせつない表情で弦に触れ、真摯に歌っている。いちども声を淀ませない胆力を、ただ凄いと思った。
 余韻を残した最後の一音が消えた瞬間、惜しみなく拍手を送る。斎は、微動だにせずにステージの正面に立っていた。
 次はおまけ! と驚くほど無邪気な声がマイクを通し、歌い始めたのは「エビフライのうた」だった。
 SATOIではなく、在河敏依が、歌っている。そう思うとたまらない気持ちになった。この音も、この歌も、一挙手一投足、奏でるコードのすべてが、在河そのものだった。
「…斎さん」
 かわいらしいリフレインで二曲目を終え、全ての音楽が鳴りやんだあと、在河はひどく優しい声で恋人の名前を呼んだ。
「おれ、斎さんに、曲作ったんだ。受けとってくれる?」
「…やだ…」
「お誕生日が、悲しい思い出になっちゃってごめんね。プレゼント遅くなっちゃった」
「やだ、いらない、歌わないで」
「ちゃんと曲作ったのなんて何年振りかなあ。斎さん、好きだよ」
 この世のありとあらゆる慈しみを摘み取ってしずくにして落としたような、掠れて甘い声だった。
 斎の涙腺が決壊して、その場に立っていられなくなる。
「ぼく、一生ここにいる。敏依が好きだよ、…行っちゃやだ、歌わないで…」
 斎にも、盤介にもわかっていた。ほんとうは贈られるはずのなかったこの曲を聴けば、もう夢の淵でだって会えなくなること。
「斎さん。…斎先輩。知ってました? あのひと、先輩のこと好きらしいですよ! 超今更で何言ってんだって感じですけどね!」
「うるっせえわ」
 まさかこちらに矢が飛んでくるとは思わなかった。反射で言い返すと、人差し指を突きつけたまま挑戦的な眼差しがいっさいのごまかしを許さず睨んでくる。
「超今更だけど、世界で二番目に先輩のこと大事にしてくれる奴ですよ。おすすめです。今ならほら、地元への転勤もついてくる」
 人の去就を通販番組のおまけのように言うんじゃない。
「幸せに、しなかったら祟り殺す」
「する」
 間髪入れずに頷いた。
「…世界一が永久欠番で、二番目に、俺が幸せにする」
「…幸せなのは斎さんだけで良いので、あんたは十五年ぶん片想いの刑ですけどね!」
 きーん、とマイクがハウリングした。絶対わざとに違いない。
「ほら、明日はジンジャーハイボールつくるんでしょう。大丈夫。気がついていないかもしれないけど、斎さんはもう、『明日』『起きること』を選んでる」
 ぼろぼろと、大粒の涙で頬を濡らした斎がいちどこちらを振り返り、またすぐに向き直る。ステージのへりまで近づいてきた在河は、しゃがみこんで斎のまなじりへ手を伸ばした。涙の痕を拭う。
「泣かないで。…斎さん、お願い。おれに、あなたへの歌をうたわせて。最後にもう一回おれを歌手にして。おれの歌で、あなたの背中を押させて」
 そのときの在河は、在河でもあり、SATOIでもあった。斎がふるえながら、けれど確かにうなずいた。
 それを見たとたん胸がいっぱいにつまり、呼吸が乱れた。やさしいピアノのイントロがどこからか流れてくると、盤介ももう涙をこらえることができなかった。

 音のシャワーが降ってくるようだった。在河の持ち得る静と動、光と影、夢と現実、感情のすべてがただひとりの愛おしい存在の元へ還っていき、サビで溢れ出す。見返りをいっさい求めない、ありとあらゆる種類の愛で埋め尽くされた最後のラブソング。
 残るじゃないか、と盤介は鼻を啜る。
 在河敏依が、七原斎のために紡ぐこの曲が、彼が生きた何よりの証だと、朝起きたら言ってやる。

deceptive cadence.

 敏依の遺体が見つかった、と彼の叔母から斎のもとへ連絡があったのは目覚めてすぐの朝だった。
 実家の、かつて作業部屋として使っていた室内に眠るように横たわっていたのだという。あれから数ヶ月が経つのに、からだはひとつの損傷も腐敗もなくきれいなままだった。
 火葬場まで一緒に、と誘われたが断った。あれ以上の別れを望んだらばちが当たる気がした。遺体が斎のもとではなく、音楽に囲まれた彼の城で見つかったというならなおのこと。
 起き抜けの通話のおかげで頭はすっかり冴えていた。盤介がここにいないということは、斎を寝かしつけたあとは自分の家に戻って寝たのだろう。とりあえず顔を洗わなきゃな、と洗面所に向かう。
 夢の中でさんざん泣いたことがデトックス効果になったのか、まぶたは腫れあがっていたが、しこたま飲まされたアルコールは全く残っていなかった。
 いつもより勢いをつけてじゃぶじゃぶと水を流す。
 鏡に映る己を見つめて――がん、と三面開きの扉を掴んで顔を寄せた。呼気で鏡面が曇る。
「斎、おはよう…?」
「おはよう! おかえり! 行ってきます!」
 親戚の家からゆうべのうちに帰っていたらしい母への挨拶を三言で済ませ、スウェットのパジャマのまま表へ出た。三秒でたどり着くお隣さんの玄関へ手をかけ、鍵がかかっていないのをいいことに上がり込む。
「…盤!」
 まだ目覚めていなかった幼馴染の布団にダイブする。ぐえ、とヒキガエルのような声をあげて盤介がまぶたを開けた。
「…ああ? おまえ、何…」
「盤、見て、これ」
 ほら、と顔を寄せる。
 右の耳たぶに、よくよく見ないとわからないほどの穴が開いていた。ゆうべまではなかった、些細すぎるけど確かな変化。盤介も次第に頭が回転し始めたのか、信じられないものを見るような目つきになる。
「……石は?」
「……石は…ないけど…あっ」
 ポケットに突っ込んだままだったスマホで叔母の番号を折り返す。確認することはひとつだけだ。隣で聞いていた盤介が「見つかったんだな」と静かにつぶやいた。
 二分足らずで通話を終えた斎に、盤介が問いかける。
「やっぱりそうだった。…敏依の両耳に、エメラルドのピアスがついてたって」
 おれからおれへのプレゼントですよ、と笑う声が聞こえた気がした。じゅうぶんだ。この穴がふさがらないうちに、早く次のピアスを刺さなくちゃ。
「盤介、今日帰るんだっけ」
「あ? ああ」
「その前に、買い物付き合ってよ」
「買い物?」
「新しいピアス。…盤が選んで」
――きっと、そういうことだろう?
 うつむいてしまった盤介は、きっかり十秒ほど目を閉じた後おごそかな顔つきで斎を見つめ、まるで誰かに誓うように右手を挙げる。
「エ」
「え?」
「エビフライの形のやつか、エメラルドにするよ」
 と告げたのだった。

 十一月三日、SATOIが事故に遭ったまさに当日付でレコード会社に一通の封書が届いた。差出人の名前はないが、この日付で、まして佐賀の消印入りとあって事務所は騒然とした。
 封筒の中には、音楽データの入った紺色のUSBと、手紙が一枚。
 七原斎に捧ぐ、と書かれていた。

fine.