偽終止 - 3 -

interlude.

 旧校舎の音楽教室は、今は半分が物置として使われている。いつだったか授業をさぼってふらふらしていた時に見つけたここが、敏依の絶好の昼寝スポットになっていた。
 無造作にひいたカーテンの隙間から、みごとに光が射しこんでまぶたを直撃している。瞳を閉じても世界が明るいことがわかる。顔の半分だけがあたたかい。しかし立ち上がるのも億劫で、もう少し惰眠をむさぼっていたかった――のに。
「在河、またここにいたの」
 背中から声が聞こえる。今日の部活動のペア相手だ。授業は午前中で終わり、片し隊はあすの体育祭のための準備――テント張りとか大道具小道具の準備とか設営とか――を仰せつかっている。
 狸寝入りを決め込むには相手の人が良すぎるので、諦めてのそりと顔を上げた。振り返ると、むしろ斎のほうがぎょっとして駆けてくる。
「風邪? しんどそう」
「……ああ、風邪。なるほど」
 体はだるいし、陽が当たっていないところは冷えを自覚した順に鳥肌がたって伝染していく。喉はいがらっぽく痛む。言われてみればどれも風邪の諸症状だ。
「のど飴あるよ」
 そのひとが着ているパーカーとよく似た色のフィルムに包まれた、はちみつと柑橘の甘い飴を受けとって、舌先で転がす。甘酸っぱさが口内に広がって、すぐにがりりと音をたてて噛み砕いてしまうと「意味ない」と笑われた。
「おかわりあります?」
「ごめん、ない。…歌をうたう人の喉でしょう。大事にしないと」
 二つ目の飴の代わりに随分とおやさしい科白、頼んでもいないのに――という胡乱な視線に、隣の席に座った斎はもちろん気づかないわけはない。
「…斎先輩って、会った時からおれのファンって言い続けてるよね」
「うん」
「今でも?」
「うん」
「今、おれ、普通の高校生だけど」
「でもSATOIが消えたわけじゃないじゃん。SATOIと在河はひと続きでしょ。きらいになる理由がない」
「その割に、おれにサインくれとか、カラオケ行こうとかも言ったこともないですよね?」
「だって、それはSATOIじゃなくて在河だから」
「……うーん」
 熱のせいで痺れはじめた頭ではわかるようなわからないようなその理屈は、ふしぎと悪い気はしなかった。
 入部してしばらく経った頃、同じ班に振り分けられた。今よりも随分態度が悪かったと思う。元芸能人という色眼鏡で近づいてこられることに、うんざりしていた。
 連絡先を訊ねてくる女子がいないだけ中学よりはましだったが、男のやっかみは時にもっと厄介で、なるべく人と関わらないで過ごすために必要以上に愛想を消していた。やっぱり芸能人って性格悪いな、偏屈だな、お高く止まってんな…そんな噂と引き換えに面倒から逃れられるなら安いものだ。
 片し隊を選んだのもしがらみが少なそうだったからだというのに、この相手ときたら何重にも張り巡らせていたはずのバリアを潜って、気づいたらパーソナルスペースの内側にするりと立っていた。作業を開始するなり息せき切って声を掛けられ、
――ぼく、初めて買ったCD、SATOIなんだ。今でも一番好きな歌!
 とひとつの曇りもない笑顔を向けられた。
 こいつ、商店街のCD屋が閉店するとき頼み込んでお前のポスターもらってたぜ、と横から教えてくれたのはリーダー格の先輩で、斎の幼馴染らしかった。
――それって顔が好きってことですか。
――顔っていうか、声っていうか、曲っていうか…ぜんぶ?
――はあ。
 神童も十五で才子、はたち過ぎれば…というけれど、十六の自分はもうとっくにただのひとだ。何を期待されても困るなと正直気が重かった。歌ってくれとか曲を作ってくれとか言われても、搾りかすさえ出てこないだろう。だからきっぱり止めたのだ。
――じゃ、在河。作業教えるから行こうか。
――へっ…
 しかし斎が敏依の過去に触れたのはそれきりで、他の後輩と同じように接されるまま一年近くが経っていた。
 正確には「同じように」ではないかもしれない。
 七原斎は、穏やかな性格をしていた。といっても気質は明るく、気を遣わせない気遣いができて、しかし愛らしく抜けたところもあって、周りの生徒からも教師からも好かれている。そつなく、まあるく整っている、という印象だった。
 なのに、敏依に対して話すときはようすが違う。何処がと言われると言葉にしづらいけど、そわそわした視線も、思いやりも、その逆のエゴのようなものも、期待も焦燥も、自分に向けられるときだけその先端がするどくなる。子どもの、発達途中の未分化な感情が全部ママに放出されてしまう感じに似ている気がした。
 産まれた時から一緒にいるらしい幼馴染と居るときの、遠慮や境界をすっ飛ばしている距離感ともまた違う。気になりつつ追求するまでもないと放置していたことを、ぽろりとこぼしてしまったのは、やっぱり熱のせいだろう。
「斎先輩は、おれといるときだけ子どもっぽくなる」
「え、そう?」
「うん。しかもそれ、敢えて? わざと? ストッパー外してるように見えるんですけど」
「あー…。クリエイティブなことする人って、観察力がやたら鋭いよね」
 そんな言い回しで肯定される。
「SATOIの曲を初めて聞いたとき、何てかっこよくて綺麗な歌なんだろうってびっくりしたんだ。それまで音楽なんてそこまで興味なくて、流れてるうちに覚えるものだったけど、どうしても欲しくてその日のうちにCD買って、夜通し聴いてた。テスト前だったからもうその時の点数さんざん」
「すみませんねえ」
「いやいや。部屋の電気消して、曲の世界にずっと浸って。あれ、夜明けの歌でしょ。聞きながらうとうとして、ふっと思いついて窓開けたらこの世の終わりみたいな橙と、群青の二色が飛び込んできて。まばたきする間にちょっとずつ様子が変わっていく空が視界を埋め尽くして…初めて見たわけでもないのに、夜明けの空ってこんなに密度が濃いのか、ってびっくりした。ああこのことを歌ってるのかって、この空を知ってたことにも、曲で表したことにも感動したんだ。ぼくよりも年下の子が、なんてものを作るんだろうって」
 音楽ライターやプロデューサーと名乗る人種とたくさん話をしてきたけれど、面と向かってこんな風に曲のことを言われたのは初めてだった。声質でも編曲力でも技巧でもセンスでもなく、曲が描いた世界のことをこんなにもまっすぐに受けとめてくれた聞き手の、生の声。
「…その曲ってあれだよね。一枚目のシングルの初回盤のおまけの」
「そう」
「ほとんど歌詞ないやつじゃん」
「うん」
「……なんで、あれが夜明けの歌だってわかったの?」
「え? なんで、わからないと思うの?」
 心底不思議そうに眉をひそめられると、こっちがおかしいみたいな錯覚を起こしそうになる。ライナーノーツもないし、あんなマイナーな曲について外でインタビューに答えたこともない。サビのリフレインにだけ歌詞がついて、それだって直接的なものは何も。
 けれど今、斎が語ったものは確かに、敏依が見た、夜明けの果ての景色のことだった。
「……それで、何か話逸れてません?」
 なんだこいつ、とぞくぞくした。
 もっと知りたい。この人のことが。
「ああ、そうそう。SATOIのその曲があんまり凄かったからすっかり好きになって、…あの頃のぼくは、出来が良い幼馴染と何かと比較されて鬱屈してたし、性格も歪んでたんだよね。でも、SATOIの歌を聞いてからもっと自分を変えたいって思って努力した。今じゃそれを隠すのも得意になって…いや、在河にはお見通しみたいで恥ずかしいけど」
 また話が飛んだ、けれど指摘せずに目顔で続きを促す。
「そういう、外面というか、よそゆきの殻を、在河の前ではかぶりたくないなって思っちゃうんだよね。ぼくにとってSATOIは全部のきっかけで、あのころ、世界のすべてだったから」
「……おれとSATOIは別物扱いするくせに」
「だって別でしょ? うーん、どんどん声が枯れてくなあ」
 おもむろに立ち上がった斎は窓の錠を開け、身を乗り出した。眼下の校庭に向かって大声で叫ぶ。
「おーい、盤!」
 何人かの生徒と一緒に白線のラインを引いていた盤介は、途端にぱっと顔を上げてこちらを見つけた。
「ああ!? お前ら何でそんなとこいんだよ! 点数ボードと紙の花、探して来いって言ったろ!」
「在河、熱があるみたい。帰らせるね!」
 返事を待たずに窓を閉めた。吐く息が白く溶けていく。
「メールでも電話でも、穏当な伝え方があるでしょ…」
「だって、見えたから。これが一番早くない?」
 見えた、とこともなげに言うけれどここは四階で、敏依からしたら誰が誰だかなんて分かりやしない。十一月の半ば、昼間の時間は刻々と短くなっていて、そのぶん午後の光は蜂蜜を煮詰めたように甘くきらきらしていた。もう二時間もしない内、あっという間に暮色に染まる。
「ああ、斎先輩は、」
 どうしてだかわかってしまった。
 冬の日向が斎の横顔に影をつくって、その、そっと伏せた目線の先を追いかけた先、はためくカーテンの向こう側にばかみたいに楽しそうに笑う誰かがいる。
「好きなんですね、あのひとのことが」
 ゆっくりと顔を上げた斎の、それまで見たことのない澄んだ瞳が敏依を射抜く。
「うん」
 照れも迷いもないひたむきな眼差し。強いようでいて、後がないところに立っているような危うさと潔さをはらんでいる。
 とても、きれいだ。
「コンプレックスの原因も、あのひと? 出来の良い、人気者の幼馴染」
「そうかも。ていうか、そう」
「でも好きなんだ。言わないんですか?」
「言わないよ。ずっと叶わなくていい恋なの、これは」
「どうして?」
 訊ねながら、敏依も立ち上がって斎の隣に並んだ。カーテンに手をかけて、じゃっと音を立てて引く。少しほこりっぽい布に巻いて閉じ込めた。狭くてやわらかい、二人きりの世界になる。
「…在河、なにこれ」
「うーん。あのね、先輩。おれ、あなたのこと好きになりそうです」
 間近で覗く瞳の色はもう変わってしまっていた。残念。
「あなたがあのひとを見てるときの目が、すごくきれいだった。…何かを見て、そんな風に思ったのは、久しぶりなんです」
「…それって恋じゃなくない? ていうか、不毛じゃない?」
「きっかけなんてそんなものでしょ。先輩、焦った時に「ていうか」っていうの口癖なんだね」
 敏依の中に長いこと眠っていた感情や情動が芽吹いた瞬間だった。穏やかさの中にもっと醜いコンプレックスが眠っているというならそれも見てみたい。情も執着も甘えも全部剥き出しにしてほしい。七原斎を解体して、最後に残る魂のかけらは、もしかして自分とよく似ていた色をしているんじゃないかと思う。
 あの音の先に見えた景色が同じなら、きっと。
「SATOIに付き合ってって言われてるのに断るなんて本当にファンなの?」
「本当に熱、上がってきたなあ。何度も言うけど、今ぼくの隣にいるのは在河敏依だから」
「じゃあSATOIに告白されたら何て返すんですか」
「ええ…お友達からお願いします?」
「何で! おれとガチ恋しようよ!」
「しません」
 敏依がSATOIだった頃、もっとあけすけなアプローチをしてくる同性も異性も山ほどいたのに。十三、四の子どもだということはあの世界ではちっとも問題にならないらしかった。
「じゃあ、じゃあさ先輩、おれに…じゃなくてSATOIに訊いてもらえません? 何で音楽止めたのって」
 それまでとは打って変わったまじめな表情に、斎は困ったように首をかたむけ、
「…SATOIは、どうして音楽止めたんですか」
 と言ってくれた。しかしすぐに「って訊きたいところだけど」と敏依の答えを遮った。
 白い指が額に触れる。ひんやりとして気持ちがいい。
「風邪が治ったらにしない?」
「…今言いたい」
 熱に浮かされて足元の感覚がふわふわと気持ち良くて現実味がない。今しか言葉に出来ない気がした。
「じゃあ、せめて、座ろう」
 そのまま二人ずるずると壁に背中を預けて床に尻をついた。さっきまであんなに寒かったのに、今はこの冷たさが心地良い。肩に凭れると、よしよしと頭を撫でられた。これでは恋人というより犬扱いに近い。
「おれの母親の噂を聞いたことは?」
「週刊誌の釣り広告とか、ネットの掲示板でなら…」
 ためらいがちな言葉にうなずく。
「うん。あれ、大体当たってるんです。若い時におれを産んだけど結婚はしなかったひとがいて、おれを育ててくれたのは叔母夫婦。もう亡くなった母親は、歌手だったんだって」
 家にあったギターとPCで何気なく作った曲が見つかったときに大騒ぎになって、そこで敏依は己の出生にまつわるいろんなことを知らされた。やはり血は争えないと盛り上がる大人たちを余所目に、敏依はひとり音楽というものの引力に没頭していった。
 水底にある何か静かできれいなものに呼ばれるようにして、あるいは水底から見上げる、揺蕩う光に誘われるようにして始めた音楽は、どうしてか外に向けて放った途端に軌道が変えられ、不特定多数のフィルターを通して都合の良い解釈をされる。
「すべての人に、自分の届けたいものをわかってもらうなんて土台無理な話だったんだけど、まだ子どもだったからさあ。傷ついちゃって」
 曲のセールスが伸びるにつれ敏依の去し方は心なく暴かれてゆき、敏依の音楽はすべて亡き母に捧げるレクイエムだというばかばかしい美談がいつのまにか真実のように広まっていた。
 あまりよくない死に方をした母の名前が再び注目を浴びた影響は当然血のつながりのある叔母にも、ひいては叔父や従弟にも及んだ。叔父は心労で倒れ、その頃にはもう敏依から見た世界はこれっぽっちも美しくないものに成り果てていた。
 ゆらゆらと揺れていた光は、掴まないからこそあんなにもあたたかく、綺麗だったのだ。
「もう、俺には何もなくなった。伝えたいことも、見たいものも、届けたい人も、なんにもない。だから音楽を止めた。これ以上無理ですっていろんな偉い人に頭下げて。今までの曲の権利関係とかあったし、契約は続けてるけど、完全に開店休業状態」
 こんな己を買って、今でも待ってくれている人がいるのも知っているけれど。
「でも、今日、あなたに恋をして。おれの中にまだちゃんと、何かをきれいだとか愛しいとか想えるスイッチはあったんだなって、嬉しいんです。…教えてくれて、ありがとう、斎先輩」
 頭を起こして、体ごと向き合う。
 斎のきれいな目からこぼれた水は、ひからびた敏依の心の底に落ちてちいさな海になっていく。
 もう一度、あの光と水の美しい場所へ行ける気がした。熱に浮かされて視界のすべてがあざやかで、隣に好きな人がいる今なら、その光を裂いた向こうにも。
「…朝焼けの曲は、どんなときに作ったの」
 掠れた涙声が、はたりと落ちる。よそゆきなんかじゃなく優しい人だ。だって、自分のために泣いてくれる。
 敏依はまぶたを閉じた。透明で、燃えるような橙が藍色を溶かしこんで、甘いピンクの光線を放ちながら街のぜんぶを黄金に染め上げていった、あの朝のこと。
「窓を開けたまま寝てたら…ある夢を見て。起きたら朝で。部屋全体が朝陽にまみれて耳元で音が鳴ってた。そんな曲」
 誰のどんな夢を見たのか、言わなかった。斎も訊かなかった。でもきっと、いま、同じ空を見ている。