偽終止

overture.

 一杯ぶんだけあなたの時間をください、とひとつ年下の後輩は言った。
 斎(いつき)がさんざんに泣き腫らした顔をようやく上げると、やや首をかたむけた敏依(さとい)が、仕方ないなあというように優しい笑顔でこちらを見つめてくる。
 何年も、十何年も拗らせていた片想いを、木っ端微塵に砕かれた日のことだった。
 年始の、それも夜のふかい時間ということもあって、バーはすいていた。カウンターに何人か座っているほか、ラウンジ側には斎と敏依のほかにもう一組カップルが居るだけだ。女性の手元には透き通ったさくら色の液体が注がれた、足の長いカクテルグラス。きれいで、とても彼女に似合っていた。
 きっと、あいつの隣にいたあの女の子も、可愛らしい飲み物を頼むに違いない。また引っ込んだはずの涙がにじんでくる。
「先輩もカクテル飲む?」
 何もかも心得たふうの質問を絶妙のタイミングで寄越されてぶんぶん首を横に振る。甘い酒は苦手だった。居酒屋で頼むならビールか焼酎、辛口の日本酒。この店で覚えてからはウイスキーも嗜むようになった。つまみは何でもいいけど、飲みだすととたんに食欲が湧くので〆には炭水化物がほしい。どこにも可愛げ要素がない。
 敏依がウェイターに向けて斎のグラスを持ち上げる。すぐに琥珀色のお替りがサーブされた。自分はさっきからノンアルコールのものしか口にしていないくせして。
「敏依も飲みなよ」
「おれが下戸なの知ってるでしょう。それに、先輩を送っていかないといけないからね」
「そっちこそ、ぼくがザルなの知ってるでしょ」
 これくらいで酔うもんか。
「知ってるけど、今日はおれがちゃんと話したいから」
 視線が絡む。ゆっくりと伸ばされた手は頬に触れるのかと思ってびくりと肩を揺らしたけれど、違った。少し脈の速くなった手首を持ち上げられる。
「これ、外してください」
「え?」
 左の手首には、大学の入学祝いに父親から贈られた腕時計が嵌められている。その年に意味があるのだからと選ばれた、サファイアブルーの文字盤が特徴的な限定モデルを斎は愛用している。
「外して、その山崎のロック一杯ぶんだけ、おれに時間をちょうだい」
「…そしたら何するの」
「おれにしなよって言います」
 かちゃ、と小さな金属音とともにベルトが外される。
「…外す前から言ってるじゃん」
「はは。せっかちなもんで」
 腕時計がテーブルの端に置かれる。そういえば、これも、お揃いだった。
 幼馴染というものは厄介だ。お互い一人っ子なものだから、すっかり二家族は兄弟を育てているかのような気持ちで祝い事を合同でやりたがる。
 ひんやりと冷たい手が、斎の手をぎゅっと握る。グラスの中で氷がからんと回った。
「時計してない間は、おれのこと以外考えるの禁止です」
 斎はぱちぱちとまばたきを繰り返す。後輩はいつになく神妙な顔で、
「ゆっくり飲んでくださいね。グラスが空になる前におれのこと好きになってもらえるように今日はいつも以上に全力で口説きます」
 などと言うのが店内のいかにも気障な店内の雰囲気とあわさり、とうとう堪えきれず吹き出してしまった。
「ちょっと! 何笑ってんすか! おれ今かなりマジで言ってるのに!」
「え、笑わせようと敢えて恥ずかしいこと言ってくれてたんじゃないの? もっとポエミーでも大丈夫だよ、本領発揮で女の子相手にするみたいなの聞かせてよ」
「あのねえ」
 ぎゅむ、と鼻をつままれた。ウイスキーを一口ふくんだタイミングだったので、ごくりと飲み干すと耳元で不思議な音が鳴る。
 敏依は、照れも気負いもなくさらりと笑う。
「おれが、あなたに、好きだって言ってるの。あのひとよりも好きになってほしいから。届いてほしいのは斎さんだけで、女の子相手の口説き文句なんかこの先一生言う予定ないよ」
 ああいい声だな、といまさらのように思って、そうしたら同時にくらっときてしまった。
 一生、だなんて簡単に口にされたくないけれど、今だけ。この一杯を味わうあいだだけ、信じてみてもいいかもしれない。

 高校を卒業してすぐに地元を離れ年末年始に帰るか帰らないか、といった生活をもう何年もしていた。大学を出たあと工業メーカーの技術職として採用されて三年七か月、週末に有給休暇をくっつけてまで帰省したのは初めてのことだ。
 特急列車に飛び乗れば実家までは一時間半ほどで着く。いつだって行こうと思えば行けるこの微妙な距離が、逆に足を遠ざけていた。
 終電の鈍行はしだいに駅と駅との間隔が長くなり、車窓には雨のしずくがぶつかりはじめる。流れる光と夜の街に溶け込むように自分の顔が映って、まるで泣いているようだ。
 盤介(ばんすけ)は携帯を取り出す。読み返して幾度めか、やっと文面が実感を伴って咀嚼されてゆく。
「訃報」で始まるそのメールが、後輩の突然の死を知らせていた。

 白と黒しか存在しない空間に、かすかに流れるオルゴールの音。セレモニーホールでは三つの通夜式が執り行われているらしく、在河(あるが)の名前は三階に記されていた。
 袱紗から香典袋を広げ受付を済ませる一連の流れを終えると、盤介はそっと息を吐いた。滅多に使うことのない黒いタイをゆるめたくなる手をぐっと握る。
 就職祝いは喪服にしたら? と提案したのは隣家に住む幼馴染の母だった。不吉なようだけど、いつかきっと要るものだし、慌てて用意しないほうが良いわ。母はなるほどと相槌を打ち、両家で連れ立って買い物に行ったのが、もう三年以上前だ。
 その幼馴染の七原斎(いつき)も就職を機に上京した。帰省のタイミングがなかなか折り合わず顔を合わせていないまま何年も経っているが、数ヶ月の差で産まれた時から高校を卒業するまでぴったり隣に寄りそうようにして過ごしていた。
 斎も、そのとき揃いで買った上下の黒を着てここを訪れているはずだ。盤介よりも早く家を出たらしい彼の姿を探して、失礼にならない程度に弔問客の群れに視線をさまよわせる。

――それにしても少ない。故人の去し方を思うと不自然なほどに小規模の式だった。小さな祭壇の中央には控えめに白のカサブランカが飾られている。
 ともに過ごしたのは高校のたった二年間という短い時間だったが、こうして死を突きつけられると胸はつぶれるように痛んだ。少なくない思い出が次々に浮かんで消える。
「盤介」
 後ろから声を掛けられ、振り返るとメールを寄越してきた同級生の葵が立っていた。慌てて鼻を啜る。久しぶり、という挨拶ひとつで学生時代の距離間を取り戻せるほどには気心が知れている。
「連絡、助かった」
「新しい番号、他のやつらにも教えておけよ。連絡網が止まるだろう」
「連絡網なんて化石みたいなもん、とっくに機能してねえだろ…っつうかお前、返事放置すんなや」
 突然の死の理由を訊ねたメッセージには、夜中に既読がついたきりだ。
「直接話したほうがいいと思って。斎には会ったか?」
「ああ、いや、家に寄ったらもう出たって言われて。あいつどこ?」
 葵の細い指が示した先、パイプ椅子の最前列に確かに斎が座っていた。染めてもいないのに色素の薄い癖っ毛が記憶通りのくすんだ茶色に揺れている。

 在河は、斎によく懐いていた。

「始まるぞ」
 伏し目に、沈痛な表情を固定した司会者が話しだし、盤介と葵は後列の椅子に腰かけた。故人の名前と享年がおごそかに読み上げられ、読経が始まった。
 ほどなくして弔問客への焼香が促され、通路側に座った盤介からはその振る舞いがよく見通せた。
 棺に向かって手を合わせる斎の背中が小刻みにふるえていること。親族に頭を下げ、踵を返したその瞳が濡れていたことも。
 ややつり目がちの大きなアーモンド形から、無色透明のちいさなしずくが次々にこぼれて落ちる。モノクロの景色の中で見たそれは、一瞬、弔いの場であることも忘れて見惚れるほどうつくしい、宝石のかけらのような涙だった。
「…あいつ、怪我、してるな」
 ちいさく息を呑んだあと、盤介が口にしたのはまったく別のことだ。左手に巻かれた包帯が痛々しい。読経の合間のつぶやきを、葵は正しく拾い上げて応えた。
「在河と一緒に、斎も事故に遭ってる」
「何?」
「あとで話す」
 焼香の列に並ぶよう促され、それきり葵も盤介も口をつぐむ。式次第は粛々と進み、やがてオルゴールの音が再び鳴り出した。
「敏依様が生前に作られた楽曲をお聴きいただき、今宵はお別れの時間をともにお過ごしいただければと思います」
 そう締めくくられ、通夜が終了する。誰も席を立つことはなく、しばし音の余韻に浸った。
 あのころ音楽番組でも有線でも流れない日はなかった曲だ。近年は車のCMソングとして使用されているので今の中学生や小学生も口ずさんでいたりする。
 在河敏依――「SATOI」は、十三歳で日本の音楽チャートを席巻し、三枚のシングルと一枚のアルバムを出したあと、たった一年で芸能界を引退した「天才」と呼ばれるアーティストだった。

 ロビーには未だ人がわだかまっていて、適度な喧騒が会話をするには丁度良かった。配られた紙コップのお茶を片手に空いているソファに腰掛ける。斎はまだ、上の会場に居るままだ。
「昨日が仮通夜だったそうだ」
「仮通夜?」
「業界人が混ざると規模が無駄にでかくなるから、別口で集まるようにしたらしい」
 どうりで今日の出席者が少ないはずだ。知った顔は他にも幾人かいたが盤介と直接の交流はない後輩ばかりだ。
 部活への所属が義務付けられていた高校で、あまりやる気のない人間たちの吹き溜まりになっていたのが盤介たちの所属していた「片付けボランティア部」、通称「片し隊」だ。
 主に運動部の大会や大型学校行事の準備、後片付けなどを担う。その時だけ召集され、作業が終わればすぐ解散するので部員どうし顔も名前も知らないことはざらだった。
「何で在河とつるむようになったんだっけな」
「斎だろう。あいつが、昼飯を一緒に食おうと言い出したから」
「ああ…そういやそうか」
「お前たち、子どもみたいな言い合いばかりしてたな」
「あいつが突っかかってくるんだよ。何でか知らんが」
 葵は、昔と変わらない、唇をうすく持ち上げるやり方で笑った。
「嫉妬だろう」
「は?」
「斎とお前が、あんまりべったりしてるから」
「嫉妬って、それじゃまるで」
 あいつが斎を好きだったみたいじゃないか。
 そう言うと、葵は一重の切れ長の目をせいいっぱい丸くしてみせた。
「今更何を言ってる? ああ、いや、そうか…お前、大学からずっと向こうに行って帰ってきてないから知らないのか」
「知らん、って、何が」
「斎と在河は、もう何年も前から付き合ってる」
「――……は?」
 エレベーターの到着音がやけに鋭く響く。斎がこちらを見つけて急ぎ早に近づいてくるのが見えた。
「盤介、久しぶり」
「…おう」
 ぎくしゃくと頷く横で、葵がさらりと気遣う声を掛けた。
「ゆうべ、少しは寝れたか」
「うん、ありがとう。親族部屋で休めばって言ってくださったんだけど、何だかそれも気が引けるから一度家に帰ろうと思って」
「それがいいよ」
「し」
 思わず会話に割って入る。
「親族、って」
「叔母さんと、従弟。在河はご両親がいないから」
「そうだったな、うん、それは知ってる」
 聞きたいのはそこじゃない。
「盤介どうやって来た? ぼく車だから乗ってく?」
「ああ、頼む」
 いやそうじゃなくて。あまりに普通すぎてさっき見た横顔とのギャップがひどい。
 ここにいるのは生まれたときからずっと一緒の斎で、けれど、もうこの世に居ない後輩に心をあずけていたのだといわれると途端に薄い膜のこちらとあちらに隔てられてしまった気がした。
 同時に、あの涙が見惚れるほど美しかった理由が色濃く腑に落ちる。
「葵はどうする?」
「迎えを頼んでるよ」
「そっか。また今度、ゆっくり会おうね」
「ああ。そこの薄情者が帰ってくる稀なタイミングで皆で集まるのもいいな」
「薄情言うな、稀言うな」

 来るときに降っていた雨は上がっていた。式場のスタッフに番号札を返して傘を受け取る。土砂降りに辟易しながら、駅の真向かいにあった見覚えのないコンビニで調達した傘だ。あのとき、知らない景色を見てとっさに感じたのは寂寥感だった。それだって二年も前に建ったものだというから、葵に薄情だ稀だと言われても否定はできないのだが。
 鈍色にとぐろを巻いた雲が空の端へ追いやられ、かすかに星が見える。透明なビニール傘の、手元ではなく柄をまっすぐに掴んで歩く。水たまりを踏むたび革靴が波紋をつくる。ぱしゃ、という音が小さいころからなぜか好きで、わざわざ靴を水に浸しては叱られていた。同じように飛び込んできた斎とふたり、泥んこになって。
「その持ち方、変わんないね」
「ああ?」
 記憶の淵から不意に引き上げられて、語尾が乱暴に跳ね上がってしまう。
「これが一番周りの人に危なくないんだって昔から言ってたなって」
 ここにも雨の日の癖が出ていたらしい。
「横にしたら誰かに刺さるかもしれないし、ひっかけて振り回しても迷惑だろ」
「うん」
 十五までは、父の勧めで竹刀袋を背中に提げていた。だから余計に傘の持ち方を気にするようになったのかもしれない。
「あれ、これ親父さんの車じゃないよな」
 駐車場で、いざ乗り込む段になって気づいた。3ドアのクーパーなんて斎の父親は絶対に選ばない。
「ぼくのだよ」
「お前のとこ、おばさんの軽もあるじゃん。ガレージそんなに広かったか?」
「去年、退職したとき一瞬こっち戻ってきたんだよね。そのとき改装した」
「……退職の時点で初耳」
 喉奥から、押し出すような低い声が漏れた。そうだっけ、と斎の声も固くなる。

 知らないことばかりだ。この街の変化も。斎のことも。在河のことも。

 むしゃくしゃして首元のタイを緩めると、一気に呼吸が楽になった。さっきまでわからなかった、花と石鹸を混ぜたような香りが立って、ウィンカーにぶら下げられたストーンのしわざと気づく。芳香剤の人工的な甘ったるさとは違って、吸い込むとすっとするその香りに、ささくれた心が少しやわらいでいった。
 車窓の景色はまだ水分をふくんだように揺らぎながら流れていく。カーラジオをつけようか迷って、何だか不謹慎な気がして止める。
 かつての天才の死は、もうニュースになっているだろうか。
 いくつかの交差点を経て家灯りも少なくなったころ、ようやく盤介は「仕事、なんで辞めたのか聞いていいか」と訊ねたいことのひとつを口にすることができた。
「うん。ちょっと体調崩して」
「…そっか。今は? 東京にはまだいるんだろ」
「とりあえず繋ぎでバイトしてる。正社員の仕事こっちで探すか東京に残るか、悩んでるところ」
 口ぶりで、あまりよくない辞め方をしたのだろうことは想像がついた。盤介が気づいたことに、斎も気がついただろう。ふっと笑う気配がした。
「わざわざ言うのも何かやだったし、おじさんたちから聞いてるかもしれないなって」
「…あんまり、連絡してねえから」
「うん。ぼくも、次に盤介が帰ってきたときでいいやって…。ごめんね」
「それはいいとして…さっき葵から聞いたけど、お前」
 左手の包帯は、暗い車内でいやでも目に入った。
「在河と一緒にいたって?」
「そうみたい」
「みたい?」
「事故前後の記憶、完全に飛んでて。頭打ったからそのせいかもって病院で言われた。警察にも事故の状況聞かれたけど、本当に思い出せないんだ。二人で歩いてて、次に目が覚めたら病院にワープしてたよ」
「事故に遭ったの、九州だろ?」
「敏依と旅行してたの。バルーンフェスタ見に佐賀に行って…ぼくたち、付き合ってるんだ。五年くらい前から」
「……それも聞いてねえんだけど、俺。五年って…」
 斎の声が、在河の名前をそうして呼ぶのを、初めて聞いた。耳慣れない音がひどく気に障る。
 田舎の住宅街は信号も少ない。見慣れなさと懐かしさが等分に夜の中で雑ざりあい、ずっと昔からこうだったように錯覚してしまう。
 斎とこうしてゆっくり話すのはいつぶりだろう。距離感をはかったことなんてなかったはずなのに、時折落ちる沈黙がどうしてこんなに気まずい。
「大体さあ、女子中学生じゃないんだから、いちいち連絡しないでしょ。恋人ができました、なんて。共通の知り合いだとよけいに恥ずかしいし」
 言い訳をするとき、子どものように頬を膨らませて唇を突き出す癖が変わっていないことに、――どうしてこんなに安堵する。
「俺はしてやっただろうが」
「頼んでなかったけどね」
「つうか、あの時のメール在河に見せたのまだ謝ってもらってねえぞ」
 大学一年の後期だった。当時流行っていた限定公開機能つきのSNS上で、『初カノに浮かれる部長の図』という注釈付きでメールのスクリーンショット画像がばらまかれたのだ。祝福やらやっかみやらのコメント通知が鳴りやまなくて辟易した。
「あれ回したの、ぼくじゃなくて葵だよ」
「マジかよふざけんな」
「SNSに上げましょって言いだしたのは敏依だけどね。もうあのサービスも廃止されたし、時効でしょ」
「時効でたまるか」
「だって、……もう、いないもん」
 語尾が揺れて、はたりと涙と一緒に落ちた。
 ごめん、と小さくつぶやいて斎が車を路肩に寄せる。エンジンを止めると、街灯もない路上では世界がハザードランプの音と明滅だけになる。ひどくさびしい光のまばたきを、盤介は黙って見つめていた。右側で啜り泣く声が聞こえても、かたくなに前だけを見ていた。
 疎外感は、もう感じていない。けれど手を伸ばすことはできなかった。
 斎は、いま在河のためだけに泣いている。
 その邪魔をしないことが、盤介に許されているたったひとつの弔い方だったから。

 帰宅して、風呂から上がると母から「斎くん来てるわよ」と声がかかった。さっきの話の続きをするつもりなのだろう。クーパーは確かに広くなった七原家のガレージにぴったり納まっていた。
「髪乾かしてから上がりなさいよ、風邪ひくから」
「なあ、斎が仕事辞めたって何で言わなかったんだよ」
「あら、言ってなかったっけ?」
 とぼけてみせた母は、紅茶を用意しながら苦笑する。
「パワハラがすごかったらしいのよ。そういう話、あんただってあんまり人にされたくないでしょ?」
「…水臭え」
 さんざん家族みたいに育てておいて。
「なあに、駄々っ子みたいなこと言って。自分だけ仲間はずれでさみしかったの?」
「阿呆か」
「これに懲りたら、もう少しまめに顔見せてよ。そしたらいつだって会えるわよ、お隣さんなんだから」
「あいつもう家出てるからお隣じゃねえだろ」
「なに拗ねてるの? ほんと子どもみたい」
 ティーポットの載ったトレイをひったくり、階段を上がる。幾つになっても口で母親に勝てる気がしない。
 つま先でノックすると、内側から自室の扉が開く。
「髪乾かしてから来なよ」
 開口一番そんなことを言うので笑ってしまった。
「お前は俺の母ちゃんか」
「え、何?」
「親と同じこと言ってっから」
「風邪ひくよ。今何月だと思ってるの」
「それも言われた」
 母がこまめに掃除をしてくれているのか、部屋は清潔さを保たれている。学習机にトレイを置いてカップを渡すと、ベッドに並んで腰掛けた。車でも感じていたが、対面よりもこの方が話しやすい。
「…敏依と付き合いだしたのは、大学三年の時だよ」
 奇しくも、盤介が件のSNS事件の恋人と別れた年だ。
「高校の近くに、ちっさいランプが目印になってるバーあったの覚えてる? そう、あの隠れ家っぽいとこ。あそこで二人で飲んでて、何度目かの告白されて、…しばらくして付き合いだした。それからずっと。告白のときすごく気障だったから思わず笑っちゃった」
「…おいそこまで聞いてねえぞ、それ以上生々しいこと絶対言うなよ」
「あれ? 恋バナしたかったんでしょ」
「誰が」
「盤介が。今日は特別、聞きたいこと何でも話してあげるよ。お通夜だし、朝が来るまで」
「胸焼けするわ」
 ゆるされると、途端に心臓が焦げついたように痛くなった。教えてもらえなくて拗ねていたはずの心は、いまは違う方向に軋んでいる。
 知りたくない。
 斎がどんな風に恋をしてきたのか、なんて。相手が在河でも、そうでなくても。
 この感情の名前を盤介はよく知っている。こんな夜に、この相手に抱くことは、ひどく疚しいたぐいのそれ。
 さりげない風を装って目線をそらし、紅茶に口をつけた。もともと童顔の斎は私服になると、まるであの頃から年をとっていないように見える。
「その黄色いパーカー、高校の時も着てなかったか」
「違います今年買ったやつです~。お洒落じゃない人はこれだから」
「十年前から似たようなものしか着こなしてないってこったろうが」
「未だに高校ジャージをパジャマにしてる奴に言われたくないなあ」
「置いてあるんだから仕方ねえだろ。部屋着持ってくる発想がなかったんだよ」
 からからと笑うので、少しほっとする。事故のことを覚えていないことは斎にとって良いことだろうか、悪いことだろうか。
 最期の瞬間、在河はどんな気持ちでいたのだろうか。
 本当に夜通し恋バナとやらに付き合わされるのかと思いきや、斎は言いたいことだけ言い散らかして「眠くなった」と立ち上がった。
 互いの門扉を大股五歩で移動できる家に住んでいるので、幼い頃はもうどちらで寝ても似たようなものだと、大人たちも子ども部屋が二つあるように扱ってくれた。だがここまで図体が大きくなると「寝ていくか」と言うのは憚られた。
 逡巡した盤介の何かを見透かすように斎は「ひとりでも大丈夫だよ」と微笑んだ。
「葵が言ってたけど、…寝れてないのか」
「事故のあと、事情聴取とかいろいろあって疲れすぎてて眠れないみたいになっちゃっただけ。東京と佐賀往復しまくったし…。そうだ、盤介、いつ戻るの?」
「明日は葬儀に出て、その足で駅」
「すぐ帰っちゃうの。薄情者」
 ちっとも似ていない葵の物真似で睨まれた。
 年末は長めに帰省する、と約束をして別れた途端にどっときた。カップを洗うのも億劫で、明日の小言を覚悟しながらトレイごとシンクに置き去りにして部屋に戻った。ベッドに突っ伏すと、疲労がからだじゅうを回っているのがわかる。
 風邪をひいたら何を言われるかたまったもんじゃないので最後の気力で布団を胸まで引っ張り上げ、そこでふつりと意識が切れた。

 ごうんごうんと重くて硬い音がして、アパートの隣人が洗濯機でも回しているのかと目を覚ます。薄暗がりの景色に、一瞬どこだかわからなくなって実家にいるのだと数秒経って思い出した。
 枕とベッドの縁のあいだで携帯がぶつかりながら振動していた。青白く光る画面に斎の名前が表示されている。午前二時を回ってからの鬼着信、尋常じゃない。
「はい」
「盤、ごめん、夜中に起こして」
 名前を縮めて呼ばれたのはずいぶん久しぶりで、とっさに返事ができなかった。
「ど、うした」
「いま、敏依の叔母さんから電話があって、すぐ来てくれって。何か支離滅裂でようすがおかしいんだ。敏依がいなくなったって言うんだよ」
「いなくなった、って、お前、いないも何も」
 後から来たショックで混乱しているとか?
 気丈に挨拶していた喪主の顔を思い浮かべ、悪い予感しかしない事態に冷や汗が出る。
「俺も一緒に行く」
 間髪入れずに告げると、斎ははっと息を呑む。不安そうな語尾を隠しもせずに「ありがとう」と小さくつぶやいて、通話が切れた。
 さすがに喪服に袖を通す気になれず、黒のコートを着込んで外に出た。ふたたび乗り込んだ車は、先ほどよりもぐんと速度を増して急発進と急ブレーキを繰り返すのでひやひやする。
「おい、ここでお前が事故って後追いとか笑えねえぞ」
「はあ!?」
 焦りのまま口にした瞬間に後悔が湧いたがもう遅い。黒のマフラーをぐるぐる巻きにした斎がますますアクセルを踏み込みながら「本当にお前は」と怒気を隠さず睨んでくる。前を向いてくれ頼むから。
「ほんとうに最悪、無神経、馬鹿」
「なんでもいいから落ち着いて法定速度で走れ。運転代わってやろうか」
「黙れペーパードライバー」
「すみませんでした」
 住宅街を抜けて二車線になった道路の前後に車はなく、ようやく緩やかなスピードに落ち着いたころにはもう目的地が見えていた。
 斎がゆるく息を吐く。
「…ごめん」
「いや、俺も」
「さっきのことじゃなくて、この事態にだよ。気づいたらお前に電話してた。こんな夜中に巻き込んで…いつまで経っても甘えっぱなしだ」
 今度こそ腕を伸ばして、記憶よりも少し伸びた髪の毛をぐしゃりとかき混ぜる。
「別にいいだろ。今はここに居んだから」
 斎はぎゅっと唇を引き結んで、建物に一番近い駐車スペースに頭から突っ込んでエンジンを止めた。
 一歩足を踏み入れた途端、ホールは騒然としていた。ただごとではない気配がそこここに散らばっていて、通夜では見かけなかったいかにも業界人といったオーラを纏った男性が数名、険しい顔で話し込んでいる。
「斎くん!」
 喪服のワンピースを着た女性がこちらを認めて駆け寄ってくる。在河の叔母だ。眼差しは理性を帯びたままで、錯乱しているというよりは、ただ焦って動揺しているように見える。
「いったい何があったんですか」
「いなくなったの」
「だから、誰が」
「敏依が――」
 二人してぽかんと顔を見合わせてしまった。
「あの、それってどういう」
「喪主様、こちらへ」
 葬儀社のスタッフの呼びかけを受け、叔母が「説明はこちらの方も一緒に」と斎を示す。外すべきか一瞬悩んだが、スタッフルームに続いて入らせてもらうと特に咎め立てはされなかった。
 こじんまりとした部屋に四人掛けのスチールテーブルとパイプ椅子があるだけの部屋は、本来スタッフの休憩室として使っているのだろう。三人を座らせ、責任者らしき壮年と真っ青な顔をした女性が並び、深々と頭を下げた。
「このたびは、誠に申し訳ございません」
「お詫びよりも、もう一度説明してください。一体どうしてあの子はいなくなってしまったんです?」
「あの、待ってください。いなくなったって、そもそもどういうことですか」
 斎の質問に、もう一度スタッフが「申し訳ありません」と額衝く。
「敏依様の、御遺体が――棺の中から、消えてしまったんです」
 責任者の言葉が終わりきらないうちに女性スタッフが両手で顔を覆って泣き出した。弾かれたように立ち上がった斎の腕を反射的に、力任せに掴んでしまう。痛そうに顔をしかめて睨んでくる相手の腕を引いて先に扉を開けた。駆ける足がしだいに速度を落とし、案の定立ち止まりそうになるので、そのたびに促してやる。
 三階の踊り場の先、ひと気のない祭壇の周りは暖房を切っているらしく、ひんやりとした空気が流れていた。
「……嘘、なんで、」
 中を覗きこんで、ぞくりと全身に鳥肌が立った。
 棺の中はからっぽだった。
 まるで今もそこに眠っているかのように花は手折れてヒトの形にくぼんでいるのに、在河だけが居ない。
「…敏依?」
 斎が呆然と呼びかけ、がらんどうの棺を、そして部屋を見回した。斎にしか見えない誰かが応える、そんなドラマチックな展開は訪れることもなく、カサブランカがただ揺れている。

 ひと昔前まで、棺のそばでは親族が寝ずの灯り番をし、けして故人をひとりにしないというのが通夜の慣例だったのだという。
 斎場にスタッフが控え、電気式のろうそくが備わっている近年では遺族にそこまで求めることもない。
 親族のふたりがおやすみ、と在河に声を掛け、最上階の親族室へ向かってからスタッフが線香の交換に訪れるまでの三十分足らずの出来事だった。
 部屋の一角に備えつけられた防犯カメラは、祭壇に誰も近づいていないことを証明している。
 しかし現実に、遺体は――在河は、消えたのだ。
 仮通夜を済ませていたのが幸いした。通夜と告別式は身内のみでひっそり行うとあらかじめ周知していたこともあって、事態を聞きつけておとずれたごく親しい業界人以外に漏れることはなく、この不可解な出来事は当面、この夜居合わせた盤介たちだけの秘密となった。
 そうして、喪った悲しみ以上の気がかりと謎を抱えたまま独り暮らしの自宅へ戻りもう十日になる。
 休暇を引き延ばすことは許されなかった。ちょうど納期の近い仕事を抱えていたこともあり、没頭するうちあっという間に時間が過ぎた。
 あのあと、呆然と立ち尽くす斎に話しかけても揺すぶってもいらえはなく、スタッフの手を借りてクーパーへ押し込んだ。おっかなびっくり運転しようとした盤介の手を止め、代行タクシーを呼んでくれたのは有難かった。
 ふだん本人確認書類としてしか使用していない運転免許証は財布とは分けて保管しており、こちらに持って帰ってはきていなかったのだ。あとから気づいて冷や汗をかいた。
 翌日も斎の家を訪れたが部屋から姿を見せることはなかった。熱を出して寝込んでいると告げられ、見舞いの伝言を残すほかにできることはなかった。こちらへ戻ってからも幾度か電話をしているが、応答はない。メッセージも未読のままだ。まだ実家にいるのか、東京へ戻ったのかそれすらわからない。
 東京の法律事務所に籍を置いている葵に電話してそれとなく探りを入れたが、「恋人を亡くして落ち込むのは当たり前だ」という反応だった。しばらくそっとしておいた方が良いのでは、とも。
「お前家近いんだろ。近くなくても東京なんて狭いんだから近いだろ」
「無茶苦茶言ってる自覚はあるか?」
「悪いけど、あいつに何かあったら、すぐ俺に連絡くれ」
 わけを話せない以上強くは言えず、懇願の響きが強い声音を葵は当然訝しんだ。
『盤介、お前いったい何を心配してるんだ? まさか、斎が妙な事…』
「違う」
 みなまで言わせたくなかったし、聞きたくもなかった。日付を超えるか超えないかの残業の真っ最中で、ひと気のない休憩スペースには声が良く響いた。二十時を超え節電モードになった廊下には非常灯と自動販売機だけが光っている。
「あいつは後追いなんて馬鹿なことしねえよ。あいつの芯の強さは俺が一番知ってる。伊達に二十六年付き合っちゃいねえぞ」
『なら、何でそんなに気に掛ける? 二十六年のうち、斎が上京してからの八年は殆ど没交渉だろうが』
「それは、…」
 口ごもった理由は在河のことだけではない。とっさに歯切れが悪くなると、
『ああ。とうとう惚れたか? 斎に。お前、かなり間が悪い男だな』
 いともあっさりと回答と疚しさの原因を囁かれてしまった。
 葵とは高校、大学と付き合いは続いたが、大事なことほどこんな風に淡々と告げる癖がある。重要な局面できちんと割り切れる、そういうところを尊敬していたが、いざ矛先を向けられるとなかなかえぐい。
「お前は昔からそういう、機微とか遠慮とかを知らない奴だよな…」
『馬鹿言え、俺ほど機微を読める男はいないぞ。お前に発揮する必要を感じないだけだ』
「なお悪いわ」
『鈍感無神経』
「おい悪口大会か」
『事実だよ。お前は本当に、間が悪い』
 言いたいだけ言って満足したらしく通話は切れた。斎の家に行ってみると請け合ってくれたことだけが救いだ。それにしても学生時代から勘が鋭い奴だったとはいえ、言い当て方に容赦がない。
「すまん、ちょっといいか。部長が呼んでる」
 上司に呼ばれるまで、すがすがしいほどきっぱりした「惚れたか」というフレーズを何度も反芻していた。

 斎が実家へ帰ってきた、と聞かされたのは師走に入って街中がLEDの光にぴかぴか飾られはじめてからのことだ。
 実家の母から今年の帰省の予定をたずねる電話が掛かってきて知った。葵からもほとんど同時にメールが届く。
 母と葵の話を合算するとこうだ。飲まず食わずの日々、体調を崩したまま休日になるとどこかへ出掛ける、誰とも連絡がとれない、というようなことが続きある日とうとう倒れて病院へ運ばれたらしい。
 事情を知る勤め先のオーナーは、見舞った斎の顔色をひと目見るなり休職を言い渡した。元気になって、その気があったらいつでも戻ってきてね、と気遣いに満ちた言葉とともに。
――あんたが言えっていうから、今度は教えてあげたのよ。ちゃんと帰ってくるんでしょうね?
 脅迫に近い母の言葉に気圧されるようにうなずいた。先月の残業の甲斐もあり、年末年始はまとまった休みが取れた。普段ならせいぜい二泊か三泊で帰るところだが、出社日の前夜の列車を予約する。休みのめいっぱいをあちらで過ごすつもりだった。
 帰って、幼馴染を正気に戻してやらねば。そう心に決めてひと月半ぶりに乗ったクリスマスイヴ前日の列車は、同じように今年の仕事を終えた帰省客でごった返していた。納会で酒を入れたせいか、窓際の指定席でいつの間にか寝入ってしまったらしい。

 夢を見た。

 まぶたを開いても視界が暗いのは、夜のせいかと思ったけれどそうじゃなかった。消毒液の匂いと、左の腕からあちこちに繋がれた管がここは病院だと知らせている。全身に泥でも詰め込まれたようなだるさの中で、さまよわせた視線が探すのはたったひとりの面影。
「…さとい、」
 からからになった喉が常の自分のものとは違う人物の声音でその名前を呼んだ。引き攣れるような痛みと、鉄錆の据えた味が咥内いっぱいに広がっていく。
 そうだ、胃液を吐いて、血も吐いた。おまけに過呼吸まで出たので周囲の人には今にも死にそうに見えたろう。救急車で運ばれたのは人生で二度目、どちらも記憶が曖昧だ。
 まばたきをしたはずが、もう一度目を開けるのがなんだか難しかった。閉じた目尻から勝手に涙があふれていく。このままいっそもっと深い眠りにつけたら、迎えにきてくれるだろうか。
――どこを探しても、敏依がいない。

 冷たい水を浴びせられたような衝撃で目が覚めた。隣の席の客がこちらを心配そうに見ているので、魘されでもしていただろうか。「すんません」と軽く頭を下げて、ごうごうと走り続ける車窓に視線をそらして初めて頬が濡れていることに気づいた。
 これは、斎の涙だ。
 眠るたびにあんな夢を見ているのだろうか。毎日、こうして恋人の死を実感させられているのだとしたら、心身のバランスなんてあっという間に壊れてしまう。
 意識の在り処をトレースした夢の内容を疑う気持ちには不思議とならなかった。
――あんたたち、一緒にお昼寝してると絶対同じタイミングで泣いたり笑ったりすんのよ。
――同じ夢見てるんじゃないかっていうくらいに、ねえ。
 母親どうしがそんなことを話していたことを不意に思い出した。
 ターミナル駅で降りる頃には、正気に戻してやりたいなんておこがましい願いは吹っ飛んでいて、ただ会いたかった。斎を、あんな暗くて怖くて悲しい場所にひとりにしてはいけない。自分にできることが何ひとつないことはわかっていて、それでも、会いに行きたかった。

 都心の駅がリニューアルされて、イルミネーションがきれいだから見てきたら、と勧められるがままに家を出た。すっかり痩せて体力の落ちた斎の散歩に付き合うためだ。倒れて以降は実家で静養中だという。
「男ふたりで見てもねえ」
「どっちかっつうとケーキ買ってこいのほうが本心だな、あれは。東京に比べたら、こっちのなんてしょぼくて見てられないんじゃないか」
「うーん、人が少ないぶんこっちの方がゆっくり見られていいかも」
 都会の一等地で入場料をとって灯す何百万球のライトと比べても仕方ないのかもしれない。
 白と金を基調にしたシンプルな電飾がこの街に唯一ある百貨店をじゅうぶん煌びやかに魅せている。せっかくだからと、大きなツリーがよく見える硝子張りのコーヒーショップに立ち寄ることにした。
 久しぶりに顔を合わせた斎は笑顔を見せていたが、コートを脱いだのを見てぎょっとした。一回りほど華奢になって、セーターの肩が落ちている。
「お前、これも食え」
 手をつける前だったスコーンを押しやると「いらないよ、甘いもん」と皿ごと戻される。食欲がないと言われるより余程ましな理由にほっとした。
「盤介、昔から顔に似合わず甘党だよね」
「童顔辛党に言われたくねえ」
 生クリームの上からキャラメルソースをかけたスコーンをつついていると、ふっと笑う気配がした。
「らしくない気遣いしちゃって。母さんにちゃんと食べさせろって言われた? おばさんかな」
 正解はどっちも、だが答える義理はない。
「体重戻したら言わねえよ。…そんで、最近はどこほっつき歩いてんだ」
 探しに、という単語を敢えて避けたが意図は伝わったようだ。
「いろいろ。昔住んでたアパートとか、よく行ってたお店とか、バイト先とか」
「バイトなんかしてたのか、あいつ。印税で一生暮らせるだろ」
「それ禁句。ニートは嫌だって、コンビニとかレストランとか…こっちに住んでる間に、敏依は二回引っ越したけどどっちのアパートもめちゃくちゃ狭いの。節約生活して、苦学生ごっこ楽しんでたよ。一緒に上京したんだけど東京でも同じことしようとしてたからさすがに止めて、あっちでは一緒に住んでた」
「優雅な遊びだな」
「同じ階の学生と仲良くなって、で、お前学部どこだっけ? って聞かれて煙に巻くときが最高に楽しいって言ってた。ぼくの使わない教科書、わざと部屋に置いたり、レポート手伝ってあげたりもしてたな」
「俺の知ってる在河から何ひとつ変わってなくてむしろ安心したわ」
 地頭が良いらしく、馬鹿なことでも緻密な計画を立てて全力でやり通す。人を傷つけない嘘は娯楽ですよ、などとのたまって盤介も斎も何度騙されたことだろう。
「東京でも学生向けの店でバイト掛け持ちしてたんだけど、さすがに二年前くらいから学生詐称は止めて、ひとつに絞って」
「何で」
「お肌の曲がり角には逆らえないって」
 阿呆すぎる。
 軽く笑ったあとにふっと落ちた沈黙、とたんに斎はスイッチが切れたように表情を消した。時々こうなってしまうと事前に母親から聞いてはいたが、すっかり心をなくした人形じみていて背筋が冷える。本人も無意識なのだろうからたちが悪い。斎の心の移ろいを手繰り寄せる話題をなんとか探すしかない。
「お前さ、在河のどこが好きだったの」
「……なあに急に。恋バナの続き?」
「話し足りなそうだから聞いてやってんだよ。俺にとってはクソ生意気で、出来が良いのにマジでバカって感じの後輩そのいちだけど、お前から見た在河は違うんだろ」
「出来が良いのにマジでバカ…」
 語呂の良さが妙なツボに入ったらしく、斎は肩を震わせている。やがて顔を上げて、猫のように双眸を細めた。
「敏依は、ぼくのことが好き」
「はぁ」
「…っていうところが、いちばん好きなところ」
「それはお前、どうなのよ」
 冗談めかしているようで眼差しはいたって本気だったので、笑い飛ばせなくなる。
「ずっと好きな人がいたんだけど、振られて。…片想いしてたときから敏依が色々励ましたり慰めたりしてくれてたんだ」
 これも盤介の知らない斎の話だ。とげが刺さったような痛みには気づかないふりをする。
「ぼくが欲しいものを、欲しい時に、欲しいだけ差し出してくれる」
「さっきからすげえ自己中に聞こえるけど」
「うん。勝手なんだ。――でも、敏依がくれるものだから嬉しくて、もっと欲しくなるんだよ。他じゃ意味がない。自己中っていうけど、その、僕の世界の中心(まんなか)にいるのは敏依だった。付き合いだしてから、ずっと、今でも」
 斎は、冷めてしまったブラックコーヒーを飲み干して、店の外へ視線を遣る。
「敏依の手も、顔も、声も、音楽も好きだよ。聴いてるだけで、熱いようなうれしいような、悲しいような不思議な気持ちがじわじわにじんでくる。敏依の分身みたいで、だから、いま曲を聴くと、敏依がいないのにいる気がして…あんなに好きだったのに、しんどい。…ぼくこそ薄情なんだ」
 惚気というにはあまりにさみしい、うわごとのような物言いだった。そんなことねえだろ、と返した言葉がしらじらしく二人のあいだに浮いて、落ちる。
 陽が沈んだあとの空はうすねず色の厚い雲に覆われて、冬の湿気をはらんだ空気がいまにも雨を降らせそうだった。ホワイトクリスマスになるかもしれない。
「…お前は、あのこと、どう考えてるんだ」
「いなくなったこと?」
「そう」
「わかんないよ、そんなの。現実味がなさすぎて、全然ぴんとこない。涙も出ないし、本当はあのお通夜自体がドッキリだったんじゃないかな?」
 記憶よりもシャープになった横顔を見つめる。こうして無言になるといやでもあの夢を思い起こしてしまう。
「…夢を見るんだ」
 だから、その単語が斎の口から出たとたん、どきりと心臓が跳ねた。
「病院で目を覚ます夢。事故のとき、ぼくが気がついた時にはもう敏依はいなかった。遺体も見てない。だから、もしかしたらぜんぶ勘違いで、隣のベッドで寝てるのかもしれない、事故に遭ったのはぼくだけで敏依がお見舞いにきてくれるかもしれない。期待を込めて名前を呼んだら、さっき吐いた血の味がして、ああもう葬儀は終わったんだったって思い知る」
 追体験した絶望を、本人の口から語られるのは予想以上にきつい。
「事故の前後の記憶がないから、敏依がぼくに何か言いたいことがあるのかないのか、それさえわからない。でも焼かれて骨と灰になったら、もう喋ることができないから、その前にいなくなったんじゃないかって思っちゃうんだ。だから、探してあげなきゃって、思うんだ…」
 硝子の向こうに在河がいるような心地でツリーを見上げる斎につられ、視線を窓の外に向ける。もちろんそこには誰もいない。
 葵にもう一度たずねられたら、今度はきっぱり否定する自信がない。斎にその気がなくたって、もし断崖絶壁の上に在河が居たら、迷わず駆け寄っていってしまうんじゃないだろうか。そのくらい危うさをはらんだ眼差しで、在河の影を追っている。
「そろそろ出よう。ケーキの引き取り時間が終わっちまう」
 今のところ、こちらへ引き戻すための手段がお使いというのは遣る瀬無い。一緒に帰ろう、いかないでくれ、俺のそばにいてくれ。どれも偽らざる本心だからこそ今は口にできない。
 盗まれたのか、消えたのか、死の淵からよみがえったのか。超常現象に興味はないが、どれだとしても、盤介にはどうでもよかった。斎を連れていかないでくれればそれで。

 普段から寝つきの良い盤介はほとんど夢を見ない。例外はアルコールを摂取した時で、柄にもなく父が買ってきたワインを空けたときから予感はしていた。
 眠りにつく前に、できればもう少し穏やかなものがいい、などと考えていたせいだろうか。目を覚ますと盤介は――斎は、病室とは違う、心地良い喧騒の中にいた。フロア全体が夜に寄り添うように暗く、穏やかな橙の照明が店内を包んでいる。
 母校に通っていたころから、古民家風の造りが気になっていた。成人して最初に飲むのはここと決めていて、以来斎は小さなバーの常連客だ。こう見えて学生にも優しい料金体系なのもありがたい。
 酔いたいのに、酔えない。手の中でグラスの氷がぐるんと回る。遠ざけて置いたスマートフォンの画面は次々とメッセージの通知を寄越す。
【この前は、いろいろ愚痴って悪かった】
【決着ついた。結局、やっぱり俺の子どもじゃないし、もう全然好きでもなかったって言われたわ】
【葵がいま慰め会っつってカラオケで失恋ソングばっかり歌ってきやがる。地獄。今は槇原敬之】
【恋なんてしないなんて言いません。宣誓、年内には就職決めて次に付き合う彼女と結婚の挨拶しに帰る】
「これは相当酔ってるなあ」
 幼馴染が三年近く付き合った恋人とたちの良くない愁嘆場を繰り広げ、ようやく別れたらしい。結果としてはろくでもなかった女性と縁が切れておめでとう、という気持ちだが、修羅場真っ最中のときに掛かってきた盤介からの電話は斎の恋心をさんざんに砕いてくれていた。
――彼女が妊娠したかもしれない。
 どんな性悪女だって、彼の子どもを宿せる可能性があるというだけで自分よりずっと立場が上だ。このリードは永遠に埋まらない。人体の摂理が斎をなにより打ち呑めした。
「あの、初心者向けのウイスキーって、ありますか。割らないやつ」
 カウンターから差し出された琥珀色の液体は、店内のひかりを集めてうつくしく揺れていた。口元に近づけると噎せ返る香りに一瞬たじろいだが、少しずつ含むと舌が熱くなって、ハイボールとは全然違うしびれるのにまろやかな、不思議な刺激を受ける。体の内側から熱が上がってくる感覚と後味が混ざりあうのが癖になりそうだった。
 ふわふわといい気持ちのままスマホをかたむけて、返信しないまま電源を落とす。
「盤のバ―――――――カ」

 目が覚めた時の衝撃は、前回以上だったかもしれない。
 確かに穏やかな夢を見たいとは言ったけれど。
 忘れかけていたあの夏の夜のことがあざやかによみがえる。自分が斎に何を言って、何を言わなかったのかも。そのわずか半年後の大晦日に、当てつけのように新しい恋人を伴って帰省したことも。あの時斎はどんな顔をしていたろう。
 ベッドの上に胡坐をかいて、眉間を押さえる。葵は自分のことを何と評していた。
「鈍感、無神経、間が悪い…」
 はああああ、とため息が漏れる。寝ぐせだらけの髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜても、いちど見てしまった記憶を消すことはできない。
 カーテンの外から、ほんのり白んだ空が見える。とんだクリスマスの朝を迎えてしまった。