ポップソングになれない僕ら

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 肩甲骨の浮き出た背中に、窓から陽が射していた。父の寝室で、父のベッドの上で、朝のひかりに塗れて裸でいる彼を見て、輔(たすく)は動けなくなった。
 振り返って、扉の隙間から覗く小さな視線に気づいたのだろう。かすかに目を瞠り、そっと唇に人差し指を当てて微笑んでみせた。まだ隣で眠っている父を起こさないように、と。
 色素の薄い、冬枯れの葉っぱのような色の髪がきらきらと揺れていた。
 あの瞬間が、初恋だった。

「いやー、えっぐい。えぐすぎる」
 放課後、親友と初恋トークになったので素直に答えただけなのに、訊いてきた当人がのけぞって倒れこんでしまった。

 校舎の四階、廊下の一番端には「郷土史研究会」という看板がかかっただけの空き教室があって、二人は放課後の時間つぶしにこの場所を活用していた。
 何年前から鎮座しているかわからないソファの上でじたばたするので、ほこりがいっぺんに舞う。夕焼けが窓から差し込んで美しい光景のようにみえるが、ほこりはほこりだ。定期的にカバーは持って帰って洗っているけど(なぜか自分ばかりがその役目を担っている)人の出入りがない教室はどうしても空気が乾燥していた。
「輔、その時いくつ?」
「たぶん、小五かそのへん。島に来て暫くしてから」
「小五で初めて恋した相手が親父のベッドの上で寝とるってさあ」
「その時は何しとるかわからんかったし、初恋って自覚もなかったよ。僕、まーくんと違って奥手やったけん」
 同い年の真煕(まひろ)はといえば、たぶんその歳の頃にはもう「まーくんのことが好き」とおませにも告白してきた一つか二つ上の女子と子どもなりの「お付き合い」をしていた気がする。
 中学に進学するとその相手とは別の彼女を作り、中二の夏で「童貞卒業した!」と健やかに報告されたことを覚えている。
 当時の輔のリアクションは「へー」。 もっと驚けとか赤飯を炊けとかうるさかったことまでセットの思い出だ(未だに解せない)。
 ちなみに輔は今でも童貞だ。でもいっこうに構わない。抱きたい相手はこの世にひとりきりで、そのたった一人と致すチャンスが来ないなら一生このままでも良いと本気で思っている。
「おい、ぼーっとすんな」
「あ、ごめん」
「そんで、今でも好きなわけやん。尚さんのことが」
「うん」
 ほかに誰もいないのにわざわざ声をひそめる真煕のこうした余分な気遣いを、輔は好ましく思う。気の利かない自分にはできない芸当だ。
「七年経っておっさんになった今でも?」
「まーくんは、尚さん見ておっさんだなって思う?」
「それは…思わんけど」
「むしろ女も男も食い放題でしょ今でも。父さんとだって別に付き合ってるわけじゃなかったみたいだし…大人ってただれてるよね」
「そうだとして、お前はそれでいいんかよ…」
 烏丸尚(からすま しょう)という名のその男は四十を過ぎてなお年齢不詳の容姿をしていた。
 同い年で長い付き合いの父に言わせると、十代のころはもっと中性的で目のやり場に困ることさえあったという。その面影を強く残したまま、しかし童顔というわけでもなく、むしろ年齢の平均以上に人生の酸いも甘いも見てきたような得体の知れない気配を漂わせている、画だけは硬派のカメラマン。流した浮名は数知れないが、軽さを身上としているからか、決して愁嘆場を拗らせたりしないのが美点――などと自分で言っている。
 そんな男に、もうずっと不毛な恋をしている。
「そろそろ出ようか」
「おう」
 輔と真煕は、高校まで一日に朝昼夕と三往復しかしない船で通っている。だから放課後は適度に時間をつぶしてから船着き場に行くのが常だった。
 水害やダムの建設で村や島の統廃合が進んでも人口は減る一方の限界集落。最近はスローライフが持て囃され、輔の通った小中学校にも「敢えて」子どもを本土から通わせる留学制度(ちゃんちゃらおかしい)の受け入れ態勢が整いつつあるが、現役の住民からすれば島はただの退屈で窮屈な田舎に過ぎない。
 なだらかすぎる家屋に手の入れられていない山と、それだけが取り柄のように美しい海が、この島のすべてだ。
 平日の夕方便は通勤や通学で利用する乗客がほとんどなので、わざわざデッキのへりに立って景色を眺める人も少ない。
 けれど輔はこの海が好きだ。波の音が好きだ。しぶきをかきわけるモーター音も好きだ。
 晴れの日も、雨の日も、潮の匂いは変わらない。この十五分足らずのクルーズが一日の中で一番好きな時間だった。
 今日も船外の甲板にぼうっと立っていると、真煕が「明日の天気は?」とたずねてきた。
「何でしょっちゅう僕に聞くんよ」
「だって、輔は雨予報だけ当てるやろ。明日はグラウンド走るより体育館でバスケしたい気分やけん雨やったらいいなって」
「こんなに空がきれいなのに雨降らんと思うけど…」
 だいいち、輔の勘が冴えているのは天気に関するものではない。
「どういうこと?」
「尚さん」
「はっ?」
「尚さんがこの島に来るとき、たいてい、雨が降るんよ。今日帰ってくるかなって時に、傘持って港に行ったら尚さんが降りてくることが多い」
「…事前に連絡があるでもなく?」
「あるでもなく」
「尚さんが来る日に空振りしたことは…?」
「ここ数年はないかな」
 事実を述べただけなのだが、いたく気味悪がられてしまった。尚の帰郷の頻度は年々減るいっぽうなので分母が365の単なる確率論でしかないと思うのだが真煕はそれ以上の追求を嫌がるように話題を変えてしまった。
「進路調査票もらった?」
「もらったよ。まーくん、進路決めた?」
「まだ。島は出たいし、どうせ行くなら東京の大学がいいかなって思っとるよ」
「まーくんらしい」
「輔は?」
「残るよ。再開発計画で、島に花畑作ったり、桜の植樹したりして、観光スポットにするっていう話があるの知っとった? 役場の柴田さんの話やけん、確かと思うんよ」
「何それ。…この島でそんなんできんの?」
「わかんない。でも、本当ならやりたい。やけん僕、本土の花屋に就職するわ」
「花屋ぁ?」
「島が、僕の世話した花でいっぱいになったら、きっと尚さんが撮りにきてくれると思わん?」
 うっとりと夢を語ると、真煕の顔がいよいよこわばった。気にしない。
 カメラマンの「ショウ」は、この島の出身だが活動拠点は東京にある。
 もう何年も人物を撮らず、美しい花や景色を硬質なモノクロで切り取ってまったく違う角度で魅せることで有名だった。故郷の島が花で溢れかえるようになったら、今よりもっと頻繁に、海を渡って帰ってきてくれるようになるのではないだろうか。
「…輔はさ、そんなに、そーんなに尚さんが好きなのに、何で本人の前ではあんなに屈折してるわけ」
「別に、普通やけど」
「港に迎えに行っても世間話のひとつもしねえって実況されたことあるんやけど、おれ」
「…まーくんさ、尚さんと仲良しやね」
「輔が避けとるだけやろ」
 やることは大胆なくせして人の機微に敏いところのある親友は、物事の核心を突くのが得意だ。こんな風に。
「中学で何かあった? あの頃はめちゃくちゃ懐いてたのに、最近ろくに口もきいてくれんって、反抗期かな~って真顔で言われたんやけど、おれどうしたらよかった?」
「やめてほしいんよね…そういうの…」
 本気でいらついた溜息を吐くと、真煕の顔に同情の色が浮かんだ。
「まーくんだって、好きな女の子にまったく異性として意識されんかったら情けなくなるやろ」
 びゅんびゅんと頬を横切っていく秋の風に、水滴が混じる。もう肌寒く感じる季節になった。
「中学の時にまじめに告白してこっぴどく振られて、その繰り返し。もう僕なんべんも振られとるんよ。そりゃ避けたくもなるでしょ」
「でも実際お前がおむつしてた頃からの知り合いなんやろう? その相手に告られて即オッケーするおっさんのほうがヤバいやろ。犯罪やん」
「うん」
 だから、あれはラストチャンスだった。

 この夏のことだ。
 水平線のかなたから船の淡い影が近づいてくるのが見えた。尚がこの島へ帰ってくるときは決まって夕方の最終便だった。だから輔は、曜日にかかわらずこうして港に立ち、迎えることができる。
 真夏のかぎろうような夕陽が波に反射して、一面煮えるような橙に染まっていた。それさえも光の加減で海の色はまばたきの間も変化する。
 ああ、くるな、と鞄の中から折り畳みを出して広げる。船のすがたがはっきり見て取れるようになるころたちまち空に分厚い灰色の雲が迫ってきた。強い風が急に吹きつけ、砂ぼこりをたてる。潮の香りが強くなる。まだ遠くの空は鮮やかに晴れているのに、やがて暗雲はこの島だけを覆うように広がり、重く湿った空気をもたらした。
 水をはらんでふくらむ雲に、この小さな島だけが閉じ込められる。そして、静かに雨が降りだした。スコールのような風情の雲なのに、いつもこんな時はしとしとと、土壌に恵みをもたらすように優しく水のしずくを落とす。
 タラップが渡され、小型フェリーから人がばらばらと降りてくる。一様に手で庇をつくるように頭をかばい小走りに駆けていく中、尚だけがゆったりとした足取りで、まるで雨を楽しむように歩いていた。
 折り畳みとは別に持ってきていた透明のビニール傘をひらいて、傾けてやる。
「機材が濡れちゃうよ」
 そうでも言わないとこのひとは、水に晒されることを厭わない。長い髪からも伸ばした指先からもしずくが滴っている。傘の柄を渡したときに触れた指のつめたさにびっくりした。
「お前、いつもここにいるなあ。海ばっかりじゃなく学校も行けよ、受験生」
「行ってるよ。制服着てるでしょ」
「夏休みなのに」
「行ってほしいの、ほしくないの? 課外授業の帰りで、ついでに寄ったんよ。僕がいるときにたまたま尚さんが帰ってくるだけ。毎回、ほんとに、たまたまやけんね」
 本当はそうじゃないことをわかっているくせに、尚は「相変わらず勘がいいよな」と笑う。
 輔は、笑わなかった。笑えなかった。
「それも今日で、最後にするかも」
 尚の、黒いシャツが濡れて肩のあたりでしみになっていた。制服のポケットからハンカチを出して拭ってやりたい。そのまま抱きしめたい。
 けれど、こらえた。
「尚さん。僕、十八になったんよ」
 七月に、輔は誕生日を迎えていた。この年は輔にとって特別だった。
「…好きです。僕とお付き合いしてください」
 幼いころから繰り返し続けた、変わらない告白の文句。犯罪者になりたくないなどという冗談で誤魔化すことは、もうさせない年齢にやっと辿りついた。
「………」
 透明の傘にいくつもの水滴が流れては落ちる。ビニール越しの雨音は大きなビーズをこぼしたようにぱらぱらと響き、足元をぐずぐずと濡らす雨とは別のもののようだった。ふたりの呼吸と、二つの異なる水音のリズムだけが今の輔の世界を満たしている。
 やがて尚は、黙って輔から目を逸らした。ちいさくくしゃみをして、「腹減ったな」と言った。
 それがすべてだった。輔はくちびるをふるわせ、「やっぱり、もう、たまたま港に寄るの、やめよかな」とつぶやいた。
「……でも、僕たぶん一生尚さんのことが好きやけんさあ。それだけは覚えとってよ」
 通り雨が止み、うそのように晴れ間が射した。水面に夕陽が反射して、きらきらと宝石のように光る。
 顔がゆがんだのは、泣きたいからじゃなくて、眩しいせいだと思ってほしかった。

 若くしてがんを患っていた母の思い出は、ほとんどが病院のベッドの上だ。そういうと色の白く、はかなげなイメージを持たれがちだが、実際の母は凛として気が強く、いつでも明るく笑っていた。
 子どもを産まなければ寿命は少なくともあと数年は延びたのに、と口さがない看護師たちが話しているのを聞いてしまったことがある。
――僕のせいだ。
 顔をぐしゃぐしゃにゆがませて泣く輔に、母は一切のごまかしをしなかった。
「お父さんと結婚した時から、あんまり長くないのはわかってたの。でもどうしてもあなたに会いたくて、お母さん頑張っちゃった。ひとつも後悔してないよ」
 幼い輔を抱きしめて、そう言って頬ずりをしてくれた。いつまでも少女のように笑うひとだった。
 父のことをお父さん、と呼ぶのは輔に話しかける時だけで、普段は姐さん女房らしく「秋」と呼び捨てにしていた。尚のことも「尚」と。
 母が父に贈った遺言を、一句たがわず覚えている。
――わたしが死んでも、誰かを愛することをやめないで。好きなひとができたら、幸せになって。
 呼吸器を外して、もうすぐこと切れてしまうだなんてみじんも感じさせない茶目っ気たっぷりの笑顔で、こう言った。
――でも、…女のひとは、わたしが最後だったら、うれしいな。
 父は母の手をかたく握り、眼を真っ赤にして何度もうなずいた。
――あ。男でも、尚に本気になるのだけはやめておきなさいね。不幸のもとよ。
――おい、何でだよ。
――胸に手を当てて考えなさい。人たらしめ。
 そのくせ、母は尚に何度も礼を言い、父のことを託した。
――秋と輔のこと、よろしく。ごめんね。先に逝っちゃうけど、あんたたちは長生きして幸せになってね。
 母はそれから輔の頬に触れ、「大好きよ」とやさしく笑った。それが最後の言葉だった。
 十代の頃から一緒にいたという三人の絆がどれほど深いものか輔には計ることしかできない。だが、名字が同じ家族とその友人一人、ではなく昔からの三人家族に新たに輔が産まれて加わったような心地はいつも感じていた。
家族しか同席を許されていなかった面会謝絶の病室にも、手術の付き添いにも、尚は夫妻の強い希望でいつも一緒に居た。四人ではじめて家族の形が完成するようでさえあった。
 葬儀はごく親しい者だけで済ませた。父方母方いずれも鬼籍の祖父母の代わりに、尚の父だという初老の男が弔問におとずれ、輔の頭を何度も撫でてくれた。
 戻ってこないか、という彼の言葉で、両親たちの故郷が東京から遠く遠く離れた離島であること、尚の両親がその島の立派な地主であること、父の実家がかつて島に建てられ、洪水で流された神社であったことなどを輔は初めて知ったのだった。
 父がその時何を思ったのかはわからない。しかし、数年経ったある日突然会社を辞め、輔の手を引いて島に越すなり喫茶店を始めてしまった。
 もともと寡黙な男だから言わないが、輔のそばに居られる方法を模索した結果の脱サラではないか――と思っている。尚にこっそりそう言うと「そんな殊勝なもんかよ」と笑っていたが。
――ずっと帰りたかったんじゃねえか。あいつも、それが分かってたから墓はいらないって言ったんだ。
 墓を建てれば、どうしてもそこに留まりたくなってしまうから。母の骨は、海に撒いていた。それが夫婦の約束だったらしい。
「海しか取り柄が無いとこだけど、海なら、まあ、繋がってるからな」
 尚の言葉通り、その島は四方を美しい海に囲まれていた。というかそれ以外には何もない。
こんな田舎で喫茶店なんか、と子ども心に思ったが逆に娯楽のない島ではそこが大人の憩いの場となり、学生たちの放課後の寄り道の場にもなるようだった。夕方からは港帰りの漁師たちのためにアルコールも提供し、夜の早い時間に店じまいをする。
 父と尚が若いころに島を出奔した武勇伝は有名らしく、島の人々はみな愉快そうに父子を受け入れた。島の空気は大らかで、空も星も草花の色も、何もかもが東京とは違ってゆったりと穏やかに呼吸していた。
 はじめて港に着いた瞬間から、ひどく懐かしい想いになったことが不思議だった。生まれる前からこの場所を知っていて、ずっと帰ってきたかったような気がした。
 湧き上がる衝動を子どもなりの言葉で精いっぱい伝えると、父は感極まったような顔になり、「そうか」と痛いほどの力で抱きしめられた。
 就職先を探すときに島から通える範囲で、と探した一番の理由は、輔がこの島を愛しているからだ。
 両親の、そして尚のふるさとである、この島を。

 高校を卒業し、輔は予定通り島から船を渡した先にある本土の、町で一番大きな花屋に就職を決めた。
 真煕はというと、大学受験を突然止めて東京でフリーターをしている。
 忘れもしない今年の冬、受験の前夜に家出してきた親友が怒りに身をふるわせながら口にしたのは「離婚して離れて暮らす父が彼のために学費を貯めてくれていた」という、輔からすれば非常にラッキーでありがたい話だった。
 人懐こいくせに頑固で潔癖なところのある真煕には受け入れがたい事実だったようで、ずっと文句を垂れている。
「母ちゃん、あいつの暴力が原因で別れたくせに何でそんな金受け取るんだよって話じゃねえ? プライドないんかな」
「お金はお金やん。無いよりあったほうがいいし、これまでもこれからもまーくんにはいっぱいお金がかかるんやしさ」
「も~! 何でお前はそんなに物事合理的に考えちゃうんですか?」
 おちゃらけ気味に両手の人差し指を突きつけられ、無造作にその指を払う。
「痛い! 折れるじゃん!」
「折れない。すっかり元気じゃん」
上京を決意してからというもの真煕はなぜかNHKラジオを聞いては標準語を練習することに夢中になっていて、しばしば東京弁(もどき)の喋りをこうして発揮する。おかげで輔も昔の名残で、あちらの言葉をつられて口にしてしまうことが増えた。
正直、そんな暇があるなら一問でも問題を解けばいいのにと、口にはしないがずっと思っている。
「明日はどうするん。受験するのやめるんか」
「………」
「その旅費だってまーくんのお母さんが出して…」
「わかっとるってば!」
 東京には行くけど明日受験するかはまだわからんもんね、と突っ張りながら早朝くに出て行った真煕を港まで見送り、輔はその場で尚に電話を掛けた。七時過ぎと普段ならまだ寝ているであろう時間だったが、三コール目も鳴らないうちに応答がある。仕事で時間が逆さまの海外に行くことだってあるのに、尚が輔の電話に出なかったことは殆どない。それは、初めて好きだと伝えて無碍にされたあとでも変わらない。
「なんだあ、こんな早い時間に」
「おはよう。尚さん今東京にいる?」
 是の回答があったので親友の状況を簡単に伝え、あとを託した。真煕の家にも赴き、母親に上京のため連絡船に乗ったこと、尚に連絡したことを伝える。この世代の大人たちにおける尚の信頼はなぜか絶大で(あんなにちゃらんぽらんなのに)、真煕の母はひどく安心していた。
 真煕から聞き出していた便名をメールで尚に送るとひと仕事を終えた気にさえなる。海路と陸路を乗り継ぎ、夜には羽田に着くだろう。
 案の定、空港に迎えにきた尚と話して己の心持ちを定めたらしい親友は、進学を一度延期するのだと帰ってくるなり告げに来た。
「いやあ、尚さんと話してスッキリしたわあ」
――それはいいのだがしかし、纏う空気に若干の艶が透けて見えるのはどうしたことか。尚さんはすごいな、かっこいいな、などとあからさまなことまで口にする。
「まーくん、他に僕に言うことない?」
 顛末を聞き終え、おもむろにたずねると、そらとぼけて「何が?」などとのたまう。
「自分で言ったほうがあとが楽やと思うよ」
「…だから何、が…」
 長い付き合いの自分を誤魔化しきれると思うほうが間違っている。まして尚絡みのことで。
「尚さんとなにかあったでしょ。ちょっと疚しいたぐいのことが」
「ぐっ…」
 ああまで手の早い尚が、手のひらに転がり落ちてきた若者を慰めるという口実でちょっかいをかけないと思うほうが間違いだった。そして、幼い時からとにかく綺麗で格好良いものが好きな幼馴染が尚によろめかないわけがない。
 母の遺言は正しい。あの男に本気になると不幸のもとなのだ。
「輔、怖い…」
「まーくんがわかりやすすぎるんよ」
 おかわりの茶を注いでやると、湯のみを握りしめ怯えたようにこちらを見つめてくる。捨てられた子犬みたいだ。耳がしょんぼり垂れていそうな。
「………怒った? ごめん…」
「怒らんよ。今更やもん。まーくんも別に本気で尚さん好きになったわけやなかろう」
 尚だって、真煕を恋人にしようだなどとは思っていないはずだ。その程度の相手なら輔の知らない場所にもきっと山ほどいて、嫉妬してもきりがない。嫉妬する必要もない。
「尚さんは、どうせ誰のものにもならんけん」
「……それは、ちょっとわかる気がする」
「わかるってことは、まーくんも尚さんにぐらっときたってこと…」
 わざとらしく嘆いてみせると慌てて「違うよ!」と手と首を高速で振って否定する。いつでもまっすぐで、正直で、この親友みたいに生きられたらと思う。でも輔は輔にしかなれない。
「僕に対する罪悪感があるんやったら、」
「あるあるある、あるよ」
 必死に身を乗り出してくるのがおかしくて、手の甲で笑いを堪える。
「尚さんにあんまり僕の話せんで」
「えっ…逆じゃなくて? お前のいいところアピールとかするんじゃなくて?」
「何それ絶対やめてよ、逆効果しかなさそうやん」
「何気におれに対してひどくない? 輔の愛情、回りくどくてよくわかんねえよ…」
 愛情。これは愛情なのだろうか。拗らせすぎてよくわからない。
 大豆だって寝かせすぎたら腐って納豆になるし、尚への感情も似たようなものかもしれない。恋慕は、発酵したら何になるのだろう。未練とか執着とか、どう転がしてもネガティブで醜いワードしか出てこない。
 だって、もう尚に愛されたいとも思っていない。
 家族の親愛ならうんと与えてもらった。それ以外の愛をねだって何度真剣に告白しても相手にしてもらえなかった。輔の愛情表現が歪んだ原因なんて、尚でしかありえない。
 尚が誰と寝ようと誰を抱こうと構わない。輔が死ぬまで尚を好きだという事実を否定されなければ、それでいい。
「尚さんにもそう言ったんよね」
「不毛すぎ」
「うん。僕もそう思う」

 小学校に上がってから、尚が写真を撮ってくれることが増えた。はじめての運動会では午後からしか来られなかった父や、一時退院すら許されなかった母の代わりに声援を送ってくれたのも尚だった。
 尚が輔を撮るときに使うのはいつも、仕事用の本格的なものではなく当時売上を誇っていた、いわゆる使い捨てカメラだった。
――なんでしょうさんは、カメラマンなのに自分のカメラで撮らないの?
――目立っちまうだろ、かっこよすぎて。
――そっかあ!
 あの頃まだ「かっこいいしょうさん」に無邪気に懐いていた小さい子どもだったから、素直にうなずいたっけ。
 本当は、その時既に業界では有名になっていた尚が周囲の余計な詮索を避けるためではなかったかと思っている。授業参観に母親が来ないというだけで悪目立ちする気配があったから。
 小学四年の時、学校行事の一環として学年で野外キャンプに出掛けたことがあった。学校が雇ったカメラマンが帯同し、やたら大きなレンズやフラッシュのついたごつごつしたカメラを構えていたのが衝撃で、彼の後ろをついて回っては質問をした。
「そのカメラと、使い捨てカメラと、何がどれくらい違うの?」
「こっちの方がずっと綺麗に撮れるんだよ」
 カメラマンは子どもにもわかりやすいようにそう言ったのだろうが、輔は納得しなかった。
「でも、同じフィルムをプロの人も使うことが多いんでしょ。ってことはシャッターを押す人が上手なら使い捨てでも綺麗に撮れるんじゃないの?」
「フィルムはそうでもレンズが…なんだ、君はカメラに興味があるの?」
「ううん。カメラマンに興味がある」
 その言葉をどう受け取ったか、あれこれとカメラの蘊蓄や写真家のなり方などを教えてくれた。それらには大した興味も惹かれなかったが口に出すほど幼くはなかった。その後も自由時間のたびに彼の後ろをついて回った。
 ほどなくして学校の廊下には彼が撮影した児童の写真が張り出され、自分が欲しい写真の番号を控えて注文することができた。
「水神くん、何枚買う?」
 クラスメイトの女子がそう訊ねてきたが輔はかぶりを振った。
「買わない」
「えっ何で? 水神くん映ってる写真、結構たくさんあったよ」
「うん」
 傍にいる時間が長かったので畢竟そうなったかもしれない。顔を覚えた輔にはレンズを向けやすかったこともあるだろう。
「あんな感じで仕事してるのかなって、わかったからもういいや」
「ふーん? 変なの」
 その子は写真が貼りつけてある模造紙を隅から隅まで何往復もして眺めて、自分の写真はもちろん友人たち、集合写真、好きな男子の写真までこっそり注文していた。
 遅い時間の食卓で父にその話をすると、「一枚くらい買ってもいいんじゃないか」と言われた。いらない、と結構強い口調で返した気がする。
「僕は、尚さんが撮った僕の写真のほうが好き。他のは、いらない」
 父はそうか、と頷き「尚にも言っとくわ」と味噌汁を啜った。米を炊いたり電子レンジでの簡単な調理は以前から輔の仕事だったが、最近やっと父の帰宅後ならば火を使うことも許されていた。
「味噌汁、うまいぞ」
「ほんと?」
 お世辞や誇張を口にしない父が褒めてくれるのは素直に嬉しかった。そして、それなら尚にも食べてもらいたいな、と思った。
 尚は長期の撮影で海外を回るらしく、もう数ヶ月顔を見ていない。既に父子は島への引越しが決まっていたので、時期を合わせて帰国すると言ってくれてはいたが、間に合うだろうか。
「…尚さんが帰ってくるまでに、和食練習する」
 きっと食べたいだろうから。このころ、輔のやることなすことの大半は尚がきっかけだった。
「お前は本当に、尚が好きだな」
「うん。尚さんも父さんも好きだよ」
 なんて素直に口に出せていた時は、まだ、よかったのに。

 海を渡ってからの生活はそれまでとは一変したが、いたって快適だった。父は環境の変化によるストレスを心配していたが、自分でもびっくりするほどの速さで島の暮らしになじんでいった。
 小中一貫の建物に集団下校、学年の違うクラスメイト。同い年の親友ができ、父は毎日早い時間には帰宅して家にいてくれる。すっかり方言もマスターした。「秋の子ども」ということもあってか、島の人々は皆、取り立てて愛想が良いわけでもない輔に優しかった。
 尚と気軽に会えなくなってしまったが、数ヶ月に一度は「里帰り」と称して島を訪れてくれるのでさほど寂しさを覚えずに済んだ。見るもの聞くものの全てがこれまでと違いすぎて、カルチャーショックでそれどころではなかったのかもしれない。
 島で一番衝撃だったのは、色には濃淡がある、ということに気づいた時だ。それまで、輔にとっての色彩は、二十四色の色鉛筆につけられた名前がすべてだった。空の色は濃ければ青、薄ければ水色、夜になれば黒だと信じて疑っていなかった。
 あの街には人工の色も光も音もあふれているから、そうやって名前で区分づけしないと処理できなくなってしまう。
 ところが島の自然の濃密なことといったらどうだ。
 海の色は波が押し寄せる一秒ごとに変化し、太陽の光を受けてまばたきのたびに透明にも、青とも碧とも異なるグラデーションに揺れた。母がこの海に還りたがった理由がわかった気がした。
 雲の形にひとつとして同じものはなかったし、雨上がりの虹は空の色を透かして七色では割り切れないカーブを描いていた。星空はプラネタリウムよりももっとでたらめに眩い。
 朝と夜はスイッチで切り替わるわけではなく、日ごと、月ごと、季節ごとに違った色を帯びながら複雑なまだら模様に空を染め替えじわじわとリレーする。
 そうしたことのすべて、美しく魅せるために造られたものの何倍も、日常の風景がそこに在るだけでうつくしいのだと、輔はそのとき初めて知った。その奥には、きれいだけではない、人間が敵わないおそろしさのようなものが潜んでいて、それこそが自然を自然たらしめている。
 全身をがつんと殴られたような衝撃だった。
 このうつくしさを、えも言われぬ一瞬の煌めきをとどめておきたくて、人間はカメラを発明したのかもしれない。
 物置にまとめて収納していたアルバムを引っ張り出して、尚がこれまで撮ってくれた写真たちを見る。使い捨てカメラのレンズでも、切り取った景色は、島で見るのと同じくらい綺麗に映っていた。輔のピースサインの背景にするのがもったいないほどに。
 ほどなくして島を訪れた尚に、尚の撮る写真はすごいと、綺麗だと、島での発見とあわせて夢中で伝えたことを覚えている。
 尚はなぜかあまり嬉しそうではなくて、珍しく苦い笑顔で話を逸らされた。仕事のことに触れられるのがいやだったのだろうか。
 雨の気配に敏感になったのもその頃からだった。正確には、尚と雨の気配。
 この日に行くから、と尚が告げる日になると決まって雨が降るのだった。どんな晴れ予報の時でも。
 ほんの一瞬の通り雨の時もあったが、必ず尚のおとずれには、島のどこかが水の気配をにじませる。輔の目には、雨雲が尚を歓迎しているようにさえ思えるのだった。

 小学校の卒業を間近に控えたある日のことだった。父にお使いを頼まれた帰り道、いつも遊んでいた広場(というか空き地)に真煕をはじめ同世代の少年たちが小さな円を作って何かを覗き込んでいた。
 丸まった背中に「ねえ」と声を掛けると「うわっ」と焦ったようすで振り返る。
「なんだ、輔か。びっくりした」
「皆で何見てるの」
「輔も見たい? 見たい?」
「何を見てるかによる」
 にやにやと笑う中学生と、興奮冷めやらない様子の真煕にあまり良い予感はしなかったが、強引に輪の内側に引っ張り込まれた。
「うわっ」
 全裸できわどいポーズを撮る女性を中心にあちこちに踊る太ゴシック体の煽り文字。まともにお目にかかるのが初めての、
「エロ本! 輔、見るの初めて?」
「南の本屋じゃ、爺さん怖くて買えんもんな。観光客が捨ててったんかなって」
 生とか中出しとか五時間耐久とか意味のわからない言葉が並んでいる。けど、それが白昼堂々広げてはいけないものであることはわかる。
 体温調節がおかしくなったみたいにどぎまぎしていると「いっぱいあるけん一冊ずつやるわ」と中学生が真煕と輔に手渡した。
「見つからんように隠せよ」
「なあ、輔、知っとるか? こういうの見ながら自分の手で…」
 耳打ちされた内容にびっくりしたが、真煕はとっくに経験済らしく「うわ、えっろい」と雑誌を捲って喜んでいる。
「輔、読んだらあとで交換ね」
「う、うん」
 ズボンのゴムに挟むようにして、おなかに雑誌を隠した。つるつるとした紙の冷たさに、いっそう責められているような心地がする。買い物袋を両手で抱え、小走りで家までの道を駆ける。
 台所に野菜を置いて、一目散に二階の自分の部屋へ駆けあがった。布団をかぶって、雑誌を捲る。
 表紙よりも中身はさらに過激で、写真や漫画、実体験と書かれた嘘くさい文章が並んでいる。
 セックス、という単語は知っていても具体的に何をどうするのかわかっていなかった。うわあ、と思いながらページをめくるうち、ふと、去年のちょうど今頃に見た――見てしまった光景と重なった。
 ベッドで、白いシーツにくるまれて、裸で眠る二人。尚と、父。あのとき父の髪を愛おしそうに撫でていた尚の指。
「セックスしてたんだ」
 口にした瞬間、ばかみたいに興奮した。おそるおそる、教わった通りに下着の中に手を入れると、かたくなっているのがわかった。体中の血液がそこに集まって、このままぽきんと折れてしまうんじゃないかと怖くなる。
「……っ、…」
 夢中で、そこを擦った。雑誌はいつの間にか閉じてしまっていた。どぎつい性交の写真を眺める何倍も、そういうことをしている尚、を思い浮かべただけでぞくぞくした。何だこれ怖い、怖いのに、気持ちよくて止められない。
「あ、あ、…しょうさん…っ」
 今まで学校で教わってきた勉強の全部が吹っ飛んでばかになってしまうかと思った。あっというまに快感に呑みこまれ、何が何だかわからないうちに白いものがそこから飛び出し、手や下着を汚していた。
 布団から顔を出すと部屋はすっかり夕闇に染まっており、階下で「ただいま」と父の声がした。飛び上がって下着とズボンを脱ぎ、丸めて布団の中に隠した。
「おかえり!」
 いつもより入念に石鹸で手を洗い、「ごめん、すぐ作る」と台所に立った。
 声は上擦っていないだろうか。朝と違うズボンを履いていること、ばれないだろうか。雑誌はきちんと隠したっけ。下着どうやって洗おう。気もそぞろでいると包丁で指をちいさく切ってしまい、その痛みでやっと冷静になれた。
 あの日から今日までずっと、輔の性の対象は尚だけだった。

 中学に上がると、自慰の頻度が増えた。おかしくなってしまったかと思ったが、誰に相談するより先に真煕が「なあ、オナニー何回してる? おれ一日五回くらいできるんだけどすごくない?」などと言うのですっかり安心した。二日に一度くらい、普通の範疇だ。
 ある日、真夜中にはっと目を覚ますと下着を汚していた。どんな夢をみていたのか思い出せないが、尚が出てきたことには違いない。
 たとえば銭湯や家の風呂場で尚の裸を見てもなんとも思わないのに、自慰の時に浮かべるのは尚の顔や体だった。自分でも器用に切り替えのきくスイッチのありかが不思議だ。
 だから、脱衣所でじゃぶじゃぶと下着を洗っていた時背後に立たれて、言葉通り心臓を落っことしそうなほどびびった。顔を上げたら鏡に映っているだなんて何の冗談だ。
「よう若者。お前ももうそういう年か~」
 ほんのりと顔が赤い。珍しく酔っているのかもしれなかった。
「えっ、なんで、なんでいんの? 帰ってくる予定あった? 雨降ってないよね?」
 混乱のまま口ばかり動く。尚の手が横から伸びて、流しっぱなしだった蛇口をきゅっと捻った。
「本土で用事済ませてたら船に間に合わんくてな。ぶらぶらしてたら漁船の連中が今から乗るっつうから、便乗させてもらった。深夜のクルーズもたまにはいいもんだな。今度お前も乗せてやるよ」
「…父ちゃんは?」
「さあ。寝てるんじゃねえか? 二階上がろうとしたら風呂場の電気ついてるから気になってな」
 たった今来た、という言葉に嘘はないようだった。けれど輔にしてみれば、そういうモードのときに尚に会うのは初めてで、動揺があらわになった。パジャマの裾を必死に伸ばしながら、おろおろするしかできない。せめて新しいパンツを履いておけばよかった。
 これはいつもの尚さん。おれの夢の中じゃない。おれのじゃない尚さん。必死に言い聞かせたのに、尚が何気なく髪をかき上げたときに嗅ぎなれた香水の匂いがして、もうだめだと諦めるほかなかった。もっと近くで嗅ぎたいなんて思ってしまっては、もう。
 襟ぐりの広いシャツから覗く鎖骨の端だとか、その頃伸ばし始めていた髪が半端に耳にかかってうっすら汗で貼りついているところとか、何もかもにむらむらしてしまう。
 隠しきれなくなって、咄嗟にしゃがみこんだら日焼けしていないくるぶしが視界の正面に飛び込んできた。無性にそこにかじりつきたくなる。
「……おお、若いね」
 尚は朝顔の観察のような気やすさで輔の手元(を押し上げているあたり)を眺め「中坊の頃なんて皆そんなもんだから気にすんなよ」と、なぐさめるような口調で言った。
 子どもだから、成長期だから、覚えたてだからコントロールができていないだけ。そう理解されたのだと気づいて、かっとなった。
「尚さん」
 輔をどうしようもない気持ちにさせるのは、随分前からたった一人だけなのに。
「僕、周りのみんなが言うみたいに上手にできん。こすって気持ちよくなったことなくて、つらい」
 嘘発見器にかけられてもばれない自信があった。どんな嘘でも恥でも構わない。
「…教えてよ。どんな風に触ったらいいの」
 今この瞬間、触ってもらえるためなら。
 ゆっくりと立ち上がった。何も着けていない下半身がすうすうする。覆っていた手を外すとそこは確かに起ちあがり、ぐちゃぐちゃに握りこんでいたコットンのパジャマにうっすら染みをつくっていた。
「おねがい、尚さん」
 黙ってしまった尚の、少し皺のある喉から出っ張ったのどぼとけが唾を呑みこんでかすかに上下した。
 酒のせいにすればいい。初心な子どもへの同情でもいい。性教育と言い張ればいい、もうなんでもいい。
 尚の無骨な指がそろりと伸ばされる。
 下側から、格子柄の布に触れるか触れないかのところで数秒ためらった手があっさり下ろされる。
「そういうのは、好きな女の子ができたらわかるよ。その子と付き合って、教えてもらえばいい。こんなところで無駄にすんな」
「無駄じゃない」
 ぎり、と拳を握る。無性に悔しかった。子ども扱いされたことではなく、輔が他の誰かを、おそらく同世代の少女と恋をすることをしんから望んでいるようすだったことが。
「僕、尚さんが好き。ずっと前から尚さんが好き。僕と付き合ってください」
 とうとう言ってしまった。夜中の洗面台の、そこだけぽっかり白を落とす蛍光灯の下で、下半身まるだしの情けない格好で。ぎゅっと目をつむって尚の反応を待つ。
「……輔、おまえ」
 よく通る低い声に名前を呼ばれて、そろそろと顔を上げる。
「そんなに触ってほしいのかよう、お年頃だねえ」
 鋭意工夫しろよ、今度適当にグラビア探してきてやるよ、そんなことを言いながらさっさと階段を上がって行ってしまった。
 呆然と取り残された輔の頭上で、冗談みたいに蛍光灯が明滅した。

 それからは、何度まじめに告白をしてもそんな調子だった。
 高校に上がってから筋トレに勤しみ、それなりに鍛えた身体で強引に押し倒した時でさえ笑ってプロレスか? と今時聞かないような冗句でいなされた。
 けれど本当は、伝わっていないわけではなかったと思う。
 尚が輔の家に泊まることを止め、元々持っていた土地に小さな長屋を建てたのはその年の暮れのことだった。それきり、どんなに父とふたり深酒をした夜でさえも、輔の家に泊まることは一度もなかった。
 ほどなくして父から、恋人ができたと告げられる。これで本当に、もう二人の間にはなにもないのだと確信することができて、輔は心から祝福の言葉を贈ったのだった。

 何かの拍子に就職先は花屋だと告げると、尚は「そりゃあいいな」と言った。
「うちの庭、荒れ放題だから適当に手入れしてくれ」
「花屋と園芸屋は違うんだけど」
「土いじって花植えるんだ、一緒じゃねえか。…たまに帰ってきても殺風景でうんざりするから俺を癒してくれる鉢植えでも置いてくれりゃあそれでいいよ」
 殺風景だなどとよく言う。余分なものを持たない主義らしい尚は、どうせ見ないからとテレビさえ置いていなかった。癪だったのでうんと豪華な花壇を作ってやろうと、就職前の春休みを使って土作りから勉強した。
 就職先の花屋に肥料を取り寄せ、自費で購入した。いくつかの種類を混ぜてこねていくと、ふわふわと柔らかくてあたたかい土に生まれ変わる。苗を買って適当な間隔で植えつけ、日参して光の加減を気にし、虫をとり、水を遣った。
 鉢植えも買った。ピンクのゼラニウムはその家に似合わないことこの上なかったが、いつのまにか尚の合鍵の置き場所になっていたので笑ってしまった。
花屋の仕事は朝が早い。始発のフェリーに乗って出勤し、店長がその日のせりで買いつけてきた花たちを水揚げするところから輔の仕事は始まる。
手指は荒れるし、こんな田舎でも客が多いおかげで仕入れ荷は重い。予想以上の重労働だということを勤めて最初の三日でいやというほど実感し、しばらくは夕飯もろくにとらず帰宅するなり突っ伏すように眠る日々が続いた。
半月もすると体がそのリズムに慣れてきたらしく、朝日が昇る前の凪いだ海を眺める余裕がでてきた。青一色、というにふさわしい透きとおったブルーで一面が満ちる、その時間が輔は好きだった。
真煕は上京した後も東京の友人を連れて島へ遊びに来たし、尚も何度か実家や父の店に顔を出すことがあったが、輔と何か特別なやり取りをすることはないまま春が過ぎた。庭の花壇の感想を聞いたことはなかったが、特に文句もつけられていないので続けている。じきに寄せ植えしたトルコキキョウとアガパンサスが花を咲かせる頃合いだ。
夏が訪れ、店頭にジャスミンやひまわりが並ぶころ尚がふらりと店に現れた。この店に尚が来るのは初めてだ。
「よう、やってる?」
 Tシャツとジャケットにハーフパンツという出で立ちは尚でなければ四十路男の格好としてはじゅうぶん胡散臭い。おまけに胸元にはサングラスまで引っかけていた。だいたい、花屋で言う台詞かそれ。
「それとそれ、花束にしてくれや」
 前置きもなくひまわりとマリーゴールドを指さすのでこちらも反射的に「大きさは?」と聞き返してしまう。
「そんなに大きくなくていいわ。秋の店に飾るやつだからな」
「それを僕に作らせるの、悪趣味じゃない?」
 今更花を贈り合う間柄でもないだろうに。同じ悪趣味ならいっそ輔が植えてやっている花壇から剪定して持っていけばいいのだ。
「マリーゴールドは匂いがきついから、店には置けないかもよ」
「なら家に持って帰ってもらうか。秋が、マリーゴールドってどんな花だっけなっていうから見せてやろうと思って」
「尚さんのいっぱい撮ってる写真の中にあるでしょ、いくらでも。この前もカレンダー出したばっかりじゃん…白黒だったけど。毎回、花なのにモノクロって、あれでいいの?」
「売れてるからいいんだよ」
 尚は、風景写真家に転向して以降、ほとんどモノクロフィルムしか使わないことで有名だった。どの雑誌を見ても、どの写真集を開いても切り取る景色はすべて白黒だ。それらのすべてを買い集めている自分もなかなかだとは思うが。
「尚さんのカラー、僕好きなのにな。もったいない」
「…知ったように言いやがって。俺のカラーなんて世に出回ってねえぞ」
「僕はたくさん持ってる。尚さんが撮ってくれた僕の写真」
 尚がはっとした顔つきで、まじまじと輔を見た。
 こんな風にまともに見つめ合うのは、実は久しぶりかもしれなかった。敏い尚は、いつもどこか斜に構えて、輔の気持ちを受け容れないようにしていたから。
 おもむろに、尚が切り花を活けたバケツの前に屈みこんだ。その背中を見て年をとったなと思う。
 当たり前だ。花が枯れるのと同じで、人間も年相応に変化していくから綺麗なのだ。最近都会から流行の波がきているらしいハーバリウムとやらが、輔はあまり好きではなかった。
「覚えてるか。この花、四人で観に行ったことあったの」
 人差し指でマリーゴールドをつつく。
 しずかな尚の声がパズルをひも解くキーワードだったみたいに、するりとこれまで見えてもいなかった記憶の扉が開いた。そうだ、あれはこんな暑い夏の日だった。
 珍しく母の体調が良い日が続き、退院を許されたときのことだ。まだ輔は小学校に上がる前だった。真っ青な空と分厚い入道雲の白のコントラスト、塗りたてのペンキみたいに鮮やかだった。
 尚の運転する真っ赤な車で県を越えてドライブに出かけた。母のリクエストは「花が見たい」で向かった先は近県の自然公園だった。
 春には桜や菜の花が、夏には向日葵とマリーゴールド、それに真っ赤なサルビアが、秋にはコスモス冬には水仙…というように年がら年中花が咲いていて、絶えずうつくしく整えられている。
 入口で受け取ったパンフレットの写真を見て次の季節も来たいね、と母がはしゃいで気が早いと笑われていた。
 見渡す限りのオレンジと黄色の中で、白いワンピースを着た母と手を繋いで歩いた。尚がインスタントカメラのファインダーを覗きもせずにばしゃばしゃとシャッターを押し、プロらしくちゃんと撮れよと父が小突く。
「これぞプロの撮り方だよ。俺はいつもこうだぜ」
「本当か?」
 すべてが美しく、まるで映画のフィルムの中の出来事のように満ち足りて幸福な記憶だった。
 目に映るものすべての輪郭がじんわりと夏の陽射しを帯びてやわらかく光っていた。向日葵の頭を持ち上げて見つめる母の横顔を、尚がまるで絵画のようだと褒めそやしてその時ばかりは真剣な顔でシャッターを切っていた。
 胸がつまるほど愛おしく、なつかしい記憶。
「…覚えてる。すごくきれいだった」
 不意に、記憶の中の視点が切り替わる。鳥のような俯瞰で、輔はその光景を眺めている。
 母と輔がはしゃぐのを、父は心底嬉しそうに見ていた。尚は、その後ろから父の背中を見つめている。
 ああ、そうだったのか。
 尚がほんとうに好きな人はきちんといたこと、あまりに上手に隠すから、ちっとも気づかなかった。
「な。あいつがあの花の名前を知らないっていうのは、可哀相だろ?」
 輔は顔を上げることもできず、黙ってうなずいた。
 耳をふさぎたくなるほどやさしい声音だった。こんなに真摯に、大切に、誰のことを想っているのか、どうして今日まで気づかなかったのか不思議なほどだ。
「――尚さん」
 もういい、と思った。
 きっと、尚が本当の意味で心を傾けるのはたった一人だけだ。一生涯、輔の出る幕はなくて、けれど、父が尚の手をとる日が来ないこともわかっている。
 父にとって尚は最初から最後まで、何もかもを明け渡せる対等の友人で、家族だ。
「…僕は、違う」
「うん?」
 父に成り代わることはできない。家族じゃなくていい。恋人じゃなくてもいい。今は。
 ただ最後に、本当の最期に彼を看取るのだけは、自分でありたかった。
 あの甘い夏の日の続きのように尚の最期を送ってやりたいと、その時の輔には天啓のように感じた。
「尚さん。僕、あんたの喪主にならせてよ」
「……うん?」
「誰と何をしたっていいけど、どうせ父さんにも、誰のものにもならないなら人生の最後の瞬間だけは僕にちょうだい」
 口にすると、どんどんそれが素晴らしいことのように思えた。もちろん尚の墓も自分が建てる。ひとかけらだって残さず納めてやる。海に撒いて誰かと共有するなんてまっぴらだ。
「そうしよう。あんたは骨になってやっと僕だけのものになるんよ」
 あと数十年も老いて、余命宣告されようものなら、脅してでも吐かせてでも養子縁組の手続きをとろう。それまではこの距離で許してやってもいい。尚はいつだって、輔のことを甘やかしたし、そばにいることを拒絶したりはしなかったから。
「だから別に、いま相手にしてもらえなくても全然いいや。ああすっきりした。そんな感じでこれからよろしく」
 そうと決まれば、立派な花束をこしらえてやろうじゃないか。頃合いの花を選び出し、剪定鋏でじゃきじゃきと茎を切っていく。尚の顔が、心なしか青ざめこわばっていた。いい気味。
「お前さ、なんでそんなになっちゃったの?」
 やっと逃げることを諦めたらしい尚が、慈しみと非難の入り混じった声で嘆く。
「尚さんのせいでしょ。純情な青少年のせいいっぱいの告白、のらりくらりとかわすから」
「数年ぶりに笑顔向けたかと思えばこれだよ。親の顔が見てえわ…」
「父親のことなら隅から隅まであんたのほうが良く知ってんじゃないの? これは下ネタですけど」
 剪定し終えたオレンジと黄色の花束を手際よくまとめて、水をふくませた脱脂綿でくるむ。
「しょうさんだいすき~ってちょこまかついてきて可愛かった輔はどこ行っちまったんだよ」
「今でもかわいいよ。尚さん大好き~」
 ほかに客がいないのをいいことに軽口の応酬は続く。
「見下ろして言われてもちっとも可愛くねえ。第一、もう少し感情込めて言えよ」
「言っていいの?」
 セロハンを巻く手を止めて、顔を上げた。父に似て鋭いと言われる眼光でまっすぐに想い人を見つめる。尚はしまったといわんばかりの顔をしていて、少しだけ胸がすいた。
「好きだよ。ずっと一生、あんたが好きだ」
 それは誓いの言葉に似ていた。

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