everyplace everybreath

 すべては、やや季節外れのインフルエンザのせいだった。
 学年がひとつ上がって二年生になりたての四月、新学期早々に高熱を出して三日三晩寝込んだ。インフルエンザB型と診断され、熱がひいたあとも三日の休みを余儀なくされる。家族はみな俺の不運を笑い、しかし余りに快調のきざしが見えないのでかわるがわる部屋を訪れてはなぐさめの言葉を寄越した。
 高校生の十日間は濃密だ。やっと体調が回復し、登校したら初めて足を踏み入れた教室の中ではもうすっかりグループができていた。
 大変だったねと声はかけられるが、ありがとうと返して、次のうまい言葉はもう出てこない。こんなとき、人見知りの性格が災いした。
 部活に入っていないので顔見知りも少ない。一人だけ、昨年も同じクラスだった男子生徒がいたが特に親しくはなかったし、向こうももう新たな友人の輪に溶け込んでいる。
「しくった…」
 登校を再開してから一週間ほど経ったある日の数学の授業中、ふとそんな事実に気づいてしまった俺は頭を抱えたくなった。独りが嫌なわけではない。でも、あいつは独りなのだと思われるのは癪だった。自分は誰かに――誰にも――選ばれなかった奴だと、そう扱ってもいい人間なんだとラベルを貼られるのは二度とごめんだ。
 中学時代の昏い記憶が影を落としそうになって、慌てて振り払う。視線を黒板に向けなおしても、板書の手はすっかり止まってしまっていた。等距離にあるX座標上を移動する点の行方より、俺の立ち位置を何とかしてくれ。
 平凡でいい。その他大勢でいい。周囲の景色に溶け込んでしまいたい。「友達がいない奴」にはなりたくない。ひっそり焦る指がノートにシャーペンの痕をきたなく残した。
 午前の授業を終え、そっと気配を殺すようにして廊下へ出た。数分前までしんとしていた空間に、今は左右いっぱいに広がる生徒のあいだをかき分けるようにして進むうち、担任の都古が英語の教科書片手にふらふらと歩く背中が見えた。その泰然ぶりがなんだかむかついて、早足で追い越す。と、後ろからのんびりとからかうような声が追いかけてきた。
「なんだ加賀見、ぼっち飯か?」
「第一声からデリカシーねえな」
 一年の時も副担任だったので気心が知れている相手との会話は、呼吸を少しだけ楽にした。今の俺にとっては唯一クラスの顔見知りと言っても良い。
 都古の偉ぶらない態度は生徒に好評で、年かさのほかの教師には不評だ。敬語は使わなくていい、というスタンスは今年も継続らしく、クラスの連中はすっかり気安く「ミヤコ」と呼んでいる。
「いやお前、初日から休んだだろ? 友達作りづれーんじゃないかと思って。今から学食? 一緒に行ってやろっか?」
「教師同伴じゃ余計に近くに人こねえだろ」
「ほら、やっぱりぼっちじゃん」
「放っとけよ」
「そうしてほしいなら、もう少し平気な顔しときなさいよ」
 うっかり足が止まる。
「…やばい顔してた?」
 その反応こそこわばっていたようで、わずかに見上げた都古の表情もかたくなる。
「おい、マジで変に構えんなよ。友達なんて、なろうとしてなるものじゃないだろ。百人作って山登りするわけでもないんだから」
「……そんなんじゃねーし」
 それじゃまるで、俺が、さみしかったり怖がったりしてるみたいじゃないか。
 結局、去年のクラスメイトたちと学食で合流した。そこでも間の悪さをからかわれ辟易する。クラス分けは学力順だから、文理選択さえ違えなければ今年も高確率で一緒になれたはずなのに。
「茜はド文系だもんな」
「しかも日本史選択だろ。俺暗記だめなんだよな」
「体育は合同でよかったな。あぶれたら混ぜてやるから」
「不吉なこと言うな。つるむ相手くらい、すぐできる」
 とはいえ既に完成された輪に割って入るような悪目立ちはできず、じれったい日々が続いた。悶々とするうちに葉桜の季節が過ぎた五月の大型連休明け、俺のクラスに転校生がきた。
――チャンスだ。
 いつになく姿勢を正して、食い入るように教壇の前に立つ同級生を見つめる。あいつと「友達」になれば、俺はこの空間(きょうしつ)で、もう一人じゃなくなる。
「楠本渉です。よろしくお願いします」
 時期外れの転入なんて訳ありだろうに、快活な笑顔からは込み入った事情は読み取れない。頬も瞳も頭の形も丸っこくて、人懐こい犬みたいだと思った。背はわりに高いから大型犬。
 都古はわざとらしく教室を見回し、いつもより少しだけ座高を高くしていた俺を見つけて指さした。
「ああ、あいつの家、方向が一緒だから帰り道教えてもらうといい」
「は?」
 帰り道の方向、といっても電車通学の生徒の大半は同じ駅に向かう。
 突然道案内を押しつけられ(とみせてお節介を焼かれたと気づいているのがどうか俺だけだといい)困った風の顔をしてみせたが、内心では快哉を叫びたかったし、どきどきもしていた。言葉にするのが難しい感情が一気に渦巻いて、みぞおちのあたりが少し熱い。
 転校生のまんまるの瞳が遠慮なくこちらを見てくるので、俺はつとめてクールに(見えるように)うなずいた。
「ありがとう。よろしく」
 大きな目も口も、笑うとくしゃりと糸のようにひきつれて、一気に印象が幼くなる。うん、とつられて俺も自然に笑うことができた。

 昼休みは手続きがあるとかで、ゆっくり話す時間ができたのはまさに放課後、帰宅するという段になってからだった。
「…よければ、本当に案内するけど一緒に帰る? ええと、楠本…」
「呼びにくいから渉でいいよ」
 へたくそな誘いにも、転校生――渉はあっけらかんとうなずいてくれた。
「俺は、加賀見茜」
「茜。茜くん。ありがとね声かけてくれて。僕、方向音痴だからさ、助かった」
 すごいな、と思った。こんな風にするりと人の懐に入って、相手を持ち上げて気持ち良くさせるなんて芸当、俺にはできない。素直にそういうと、
「茜くん、今のやりとりだけでそんなに難しいこと考えてたの? そっちの方がすごいわ」
「…俺、人見知りだし。よくめんどくさいって言われるよ」
「わかるかも~」
 ひゃひゃ、と肩を揺らして笑われてもふしぎと嫌な気にはならなかった。
 校舎から駅までの道はそう複雑でもない。大きな道路をひとつ跨げば最寄りだし、十五分も歩くといくつかの路線やバスが乗り入れるターミナル駅だ。
 春霞のうわついた気配は、俺が寝込んだり悩んだりしているうちに新緑の勢いにすっかり上書きされていた。夕陽になりきる前の陽光が頭上から降り注いで少し暑い。ラーメン屋やインドカレー屋の軒先からは食欲をそそるにおいがする。
 ねえ、と渉がこちらを振り返った。
「もし時間が大丈夫だったら、あっちまで歩いてもいい? CDショップあったら教えてほしくて」
「それなら、駅にタワレコがある」
 寄り道ついでに、目にうつる風景や街並みを説明しながら歩きだした。付属の大学もすぐ近くに建っているので、道に並んでいるのも学生向けの店が多い。
 散策するあいだも俺の頭はフル回転でポジティブな会話の糸口を探す――というようなストレスが、驚いたことに一切なかった。
 渉は人と話すのが上手らしい。本屋を見かければ好きな本や漫画の話が飛び出し、文房具屋を見ればノートをとるのが下手なんだと打ち明けてきた。コンビニはセブンよりローソンが好きとか。
 他愛ないやり取りと心地よい沈黙のバランスが絶妙で、こいつはすぐに友達がたくさんできるんだろう。そう思うと焦りと、変な痛みが胸を占めた。
 ほかの誰かに見つかる前に、俺と一番の友達になってくれないだろうか。そんな子どもみたいな独占欲が、すぐに罪悪感と羞恥に変わる。なんだ一番の友達って。
 知らず知らずのうちに渉の横顔を見つめてしまっていたらしい。うん? と覗きこまれる。耳を半分ほど覆う髪が、ぱさっと音をたてた。
「初めて会った気がしないなあ、茜くん」
「え、そう?」
「うん。話しやすいし、気が合うなって」
「…俺も、そう思ってた」
 ほっとしたのが、そのまま声音に出た。たぶんお前なら誰とだってそうなんじゃないか、と言わなかったのは、わざとだ。
 黄色と赤の目立つ看板をくぐって店に着くと、渉はあれこれと棚を見て回った。特に目当ての新譜があるわけではないらしい。
「CDって最近あんまり買わないな」
「データで買っちゃう派?」
「ああ、うん、まあ」
 というよりも音楽にそこまで興味がない。けど、熱心に試聴を繰り返す相手にそうとは言えず、うまい返しを探して視線を泳がせた。共通点。そう、なにか好きなものの共通点を探すならここだ。
 ふと、いささか雑なつくりのジャケット写真に目がとまった。写真のようなイラストのような、水彩の絵の具を足して溶かしていったような不思議な味わいの絵。店員が飾るポップには「あてのない旅に出たくなる」と書いてある。渉が手元をひょいと覗きこんできた。うすうす感じていたが、パーソナルスペースがやたらと狭い。
「茜くん、そのバンド好きなの? 俺も一曲だけ聴いたことあるけどいいよね」
「えっ」
 バンド。バンドなのかこれ。何人組でどんな曲なのかも知らないが、俺は反射的に首を縦に振っていた。
「いいよな、これ、この…あの…」
 おいこのアルバムどこにバンド名書いてんだ。顔の前でプラスチックの表裏をひっくり返していると、渉には健気なアピールに見えたらしい。
「そんなにおすすめなら聞いてみようかな」
「あ、じゃあ、これ、俺買う…つもりだったから、貸すよ」
「いいの? やったあ」
 これで明日も話す口実ができた、なんてせせこましいことを考えながらレジに向かうと、小遣い日前の財布がすっからかんになってしまった。店を出て、路線ごとに分かれる通路の真ん中に立つ。
「茜くんは部活してないひと?」
「うん」
「じゃ、明日もいっしょに帰れるな」
 ぎくしゃくとうなずくと、渉はなんだかとてもうれしそうに笑った。子どものような笑顔にむずがゆくなって「じゃあ」と先に背を向けて、足早に改札を抜けた。
 帰宅すると「遅かったね」と母親が心配そうに出迎えた。
「うん。…ちょっと、友達と寄り道」
 途端にほっとした表情で「そう」と頬をゆるめた。安心させたくてもう少し言葉を重ねる。
「今日、クラスに転校生がきて、そいつの案内してた」
「転校生? 今の時期に?」
「うん」
「ふうん。仲良くなれたらいいわね」
 朗らかな声の裏に、しずかに祈るような切実さ。うん、ともう一度うなずく前に、あっさり台所に取って返していった。
 夕飯を済ませてから部屋のラジカセでCDを再生する。ジャケットの隅っこにデザインめいたローマ字で記されたバンド名は「コダマ」というらしかった。
 本当はリビングに置いているデスクトップパソコンにさっさとインストールしてしまいたかったのだが弟が陣取って譲らない。案の定ゲームの前に宿題しなさい、と叱られていたがもうしばらくは離れないだろう。
 ボリュームを絞って(そうしないと隣室の妹がうるさい)流しながら、手元のスマホでバンド名を検索する。五人組の、いわゆるジャパニーズロックバンド。ボーカリストの苗字が児玉で、メンバーの一人が在来線特急時代の「こだま」のフォルムが気に入っていることがバンド名の由来。インディーズで初めて出したCDのジャケットにも列車がデザインされている。
 今日買ったアルバムはメジャーデビュー後初のフルアルバムらしく、ほかに出しているのはシングルが二枚、インディーズのシングルとアルバムが二枚ずつ。できたばかりらしいオフィシャルサイトからはあまり情報が得られない。
 歌詞カードには、少し恥ずかしくなるようなストレートな日本語が並んでいた。英語が一つもないのはかえって珍しい。恋とか愛とかありがとうとか、そうした類の単語がないのも気に入った。何より「僕ら」というフレーズが何度もでてくる。
 自分と誰か、僕と君、ではなく「僕ら」「僕たち」という響きは、俺にはひどく特別なものに聞こえた。そのくせ鳴っている音がやたらと懐かしさを帯びているせいで、ひとりぼっちの曲にも聴こえてくるから不思議だ。
「渉、好きかな」
 好きだといい。もし好みじゃなかったら、逆におすすめのものを貸してもらおう――なんて、たった一日で思考が前向きになっている自分が可笑しかった。
 深夜、灯りの消えたリビングでアルバムのデータをパソコンに、そこからスマートフォンへと移す。ついでにシングル二枚分の曲もダウンロードして部屋に戻ると、一気に眠気が襲ってきた。明日のリーダーの予習を忘れた、と思い出したのは眠りに落ちる寸前だった。

「茜のノート、がったがた!」
 一夜明けると敬称が取れていた。
 俺がひそかに恐れていたのは、昨日近づいたと思った距離がひと晩でリセットされてしまうことだったが杞憂に終わってほっとする。
 ホームルームが終わったとたん、渉は遅れている授業分の英語のノート見せて、と近づいてきた。たまさか開いたページが今日の予習部分だったが、確かにみみずがのたくったような筆記体で解読できるのは本人だけかもしれない。
「朝、電車でやったんだよ。昨日寝ちゃったから」
「電車で? 座って?」
「ああ、うん…」
「いいなあ。そっちの路線は人少ないの? 僕、昨日今日だけで電車酔いそうになってんだけど」
「少ないっていうか…時間、早いからかな」
「なるほど早起きか~、その手があったか」
 勘違いを正す前に都古がチャイムと同時に扉を開け、席に着くよう促される。
「お前ら、一日で本当に仲良くなったな」
 俺が何か言うより先に渉が「任せてください」などと胸を張るのでどっと笑いが起こる。
「なんでそっちが返事してんだよ」
 と、小さくつぶやいて笑うと隣の生徒が「あいつおもしれえな」と話しかけてきた。そうなんだよ、と訳知った顔でうなずくのはなんだか気分がよかった。
 昼休みは俺も渉も弁当を持ってきていた。教室で食べようとすると、
「せっかくだから探検したい」
 などと子どもみたいなことを言い出した。
「探検て」
「穴場とか、誰も使ってない教室とか、開かずの倉庫とか」
「おい最後のほう七不思議みたいになってんぞ」
「ベタに屋上とか?」
「屋上は立入禁止」
 ざわついた廊下を歩いても、もう不安にはならない。我ながら現金だ。
 三階から五階の先、屋上の通用口まで上りきると案の定、外へと続く扉には南京錠が掛かっていた。
「漫画みたいに、ヘアピンで鍵開けたりできないかな」
「え、ヘアピン持ってんの? なんで?」
「こんなこともあろうかと持ってきた」
 こいつほんとに馬鹿か。
 まじめな顔つきで床に膝をつき、扉の下の方に着けられた錠を何とか持ち上げてヘアピンの先を鍵穴に突っ込んでいる姿は、傍からみると実に滑稽だった。
「あ~、だめだわ~」
「諦めるの早いな」
 弁当を広げると、渉もこちらにさっさと寄ってくる。
「でも、あと二年あったらいけるかもよ」
「二年?」
「そう。今日からここが僕らの基地って、どう? 毎日鍵いじってたら、そのうち開くかもしんないでしょ?」
「…毎日、ここ通うの?」
 なんだそれ楽しそうだな。語尾が浮かれてしまいそうになるのを堪えたせいで、眉間にしわが寄った。
「うん。あ、さすがに嫌だった? 別の場所がいい? もちろん弁当ないときは食堂行ってもいいんだけど」
 踊り場に座って階段で足を遊ばせていた俺を、さらに下の段から妙に心配顔の渉が覗きこんでくる。そのネクタイの先がすっかり汚れてしまっていた。ズボンの膝もだ。紺とグレーが基調のチェックの布地は煤けたみたいに模様が消えている。
「渉さん。制服、床に擦れて大変なことになってますよ」
「うわっ…えっ…きったな」
「誰も来ないんだろうなー、ここ。掃除もしてなさげ」
「昨日おろしたとこなのに…って。待って、茜、立って」
「うん?」
「後ろ向いて」
「何…あっ」
 なんのことはない、俺が座った踊り場も負けじと埃が積もっていた。尻が床に接していた部分はそのまま薄灰色にかたどられている。
「猿みたい」
「うっさい。…ほんとに毎日ここで飯食うなら、まず掃除だな」
「お! 毎日に一票いただきました!」
 よく見ると階段にも踊り場にも上履きの跡がうっすらついている。
「掃除大変だし、いっそビニールシート持ってくるとかどう?」
「ついでに毛布持ってくるか。昼寝できるじゃん」
「ますます秘密基地っぽくていいねえ!」
 さっきから探検とか秘密基地とか、どうにも発想が小学生男子だ。つられて浮かれてしまいそうになる俺もどうかと思うが、
「もしかして渉、特撮とか好きだったりしないよな」
「なんでわかるの?」
 わからいでか。
 そそくさと弁当を食べ終え(念のため、気を使って蓋で中身をかばうようにした。気持ちの問題だ)制服の汚れを叩けるだけ叩いてもうっすらと汚れは残り、これはもう帰宅早々に洗濯だなと母に叱られる覚悟をする。
 予鈴が鳴るより早く教室に戻ると、渉は席の近い幾人かのクラスメイトに囲まれていた。それを見ているとまた胸のうちがそわそわとしてきた。午後の授業中そんな調子だったので、ホームルームを終えて渉が「帰ろう」と近づいてくると途端に安堵する。
 昨日と同じようにひと駅分を歩く。曇り空が泣きそうになっていたが、駅に着くまでは持ちこたえてくれて何よりだった。
 別れ際にCDを差し出すと渉の顔がぱっと明るくなった。
「もう貸してくれんの!」
「うん。スマホに落としたし」
「どの曲がおすすめ?」
 周回して気にいったトラックタイトルを幾つか挙げ、「青春って感じの曲が多いから渉も好きだといいな」と付け足した。好きそうなキーワードだと思ったからだ。
「青春か~。いいねいいね。楽しみ」
「俺も、聴きながら帰るよ」
 スマホを掲げると「あ、連絡先聞いてなかった」と渉がいまさらのようにつぶやいた。メッセージアプリのIDを交換すると、それだけでますます距離が近くなった気になる。つま先あたりからうれしさがじわりとこみ上げてきた。
「…あのさ」
「うん?」
「僕、大体のことには動じないけど、さすがに昨日はけっこう緊張してて」
「うん」
「だから、その…先生に言われたからだとしても、一緒に帰ろうって声かけてくれたの嬉しかった、本当に」
 少しだけ早口なのは照れているからだろうか。印象的な瞳が、ぱちぱちとまばたきを繰り返す。
「…昨日だけで終わりじゃなくてありがとう。朝、実はドキドキしてた」
 握手を求めるように、右手が差し出された。
「バカ」
 慌てた俺の口からとっさに出たのは動揺があらわの単語で、余裕がないにもほどがあった。こんな直球を投げてこられたら、俺だって恰好をつけてはいられない。
「…都古に頼まれたからじゃなくて、ふつうに俺も、と…」
 友達になりたかったから、というフレーズは口にするにはあまりに照れ臭い。
「…お前と話してみたかった。だからありがとうとか言うなよ」
 それにしたってみるみる赤くなってしまう顔を左手で隠して、返すまであきらめそうにない右手を握った。満足したらしい渉がうなずいて、「へへ」と照れ臭そうに鼻の頭を掻く。
「…じゃあ、また明日」
「うん。ばいばーい」
 大きく手を振って、人ごみの向こうへ消えていった。十七にもなってバイバイって、だから本当に小学生かよ。つられて手を挙げた自分も、そこに残った温もりまでも気恥ずかしくて、俺も速足で特急電車へ乗り込んだ。
 ターミナルでの乗換からさらに数駅を経てローカル線に乗り換えたところで、さっそく渉からメッセージが届く。
『茜はいつも何時に家出てるの?』
 返信を打つ指が、画面の上で逡巡する。
 実のところ、俺の通学時間はアルバムならたっぷり二周できるほどに長い。部活に入っていないのもこれが理由だ。帰宅時間がてきめんに遅くなってしまう。
『六時半』
『早い! それ何時に学校着くの』
 だめだ、誤魔化し方が思いつかない。
『八時過ぎ。うち、遠いんだ』
 今度は、渉の返信にしばらく間があった。
『大変だなー。夜更かしできないじゃん』
『渉の夜更かしって十時くらい?』
『なんでやねん』
『なんで関西弁やねん。小学生みたいだから』
『僕だって十一時までは起きてます』
『うちの弟でももう少し起きてるわ』
 そこでやり取りが途絶えたので、電車を降りたのかもしれない。話題が逸れたことにほっとしたと同時に、気遣われたことがすこし情けなかった。
 乗客もまばらな車両の窓に映る顔に、濃くなってきた夜の気配が影を落とす。いつも同じ時間の電車に乗るからこそ、季節の流れがよくわかる。冬は真っ暗だった空の色が、まだ青い。
 ヘッドホンを填めて、曲を再生する。周りに誰もいないのをいいことにいつもより音量を大きくした。久しぶりに、嫌なことを思い出しそうだったから。

 きっかけは些細なことだった。
 中学三年の二学期、クラスメイトの一人と口論になった。その頃の俺はそこそこ友人も多かったし、中学生に特有の小難しい言い回しや知識をひけらかすのが大好きな時期で、つまり調子に乗っていた。乗りすぎた。言い争っている途中で相手の顔色が青ざめたのはわかったのに、そこから追い打ちをかけて心無い言葉を浴びせた。
 遠巻きに笑って見守っていた友人たちが次第に表情を曇らせ、言い過ぎだとか、怖いとか、ひそひそとささやき始めたことにその場では気づかず、俺は生意気な相手を言い負かしたことに浮かれていたのだ。
 翌日から、いやがらせが始まった。授業で使う書道や美術の道具が隠されたり、置いていたはずの辞書や教科書がなくなったりした。
 それ以上に堪えたのは、無視されることだった。それまで友達だと思っていた奴らも順繰りに俺を遠巻きにした。最初は気を遣って何とかコンタクトを取ろうとしてきた奴も、いつのまにか俺の存在を視界から除くことに慣れていった。面白がって尻馬に乗ったというよりも面倒のないほうを選んだ、その程度の手軽さで、俺は「居ないひと」にされた。
 ある日とうとう机が廊下の外に出されていて、チャイムが鳴った後のしんとひずんだ廊下に、俺は教師が来るまで立ち尽くしていた。
 にわかに学級会が開かれ、担任の通り一遍の説教と、マニュアルをなぞっただけのような結論――双方悪いところを直して手打ち――がくだされたが、俺に対して冷え切ったクラスの空気が戻ることはもうなかった。
 くだらない、と思ったのはそもそも最初に喧嘩した相手が吹っ掛けてきた理由が、そいつが片思いをしていた女子が俺のことを格好良いと言っていたからだという。その女子だって、てのひらを返して俺のことを無視しているというのに。
 違うクラスには部活仲間がいて、引退した後も仲良くつるんでいた。進学塾に通っていたから他校にだって友達もいた。受験生だから、殆どの生徒とは縁が切れる。自分は平気だと言い聞かせていたが、ある夜、塾の教室で友達と話していた俺に、隣のクラスの声の大きな一人がこう言い放った。
――なあ、加賀見って、クラスでいじめられてるって本当? やめろって言ってやろうか?
 よく通る声だったから、広い教室中に響いていただろう。授業の準備をしていた講師の耳にも入ったらしく、彼女はそっと眉をひそめてこちらを見た。
 あのときの羞恥心を、俺は一生忘れないと思う。
 純粋な親切心から出た言葉だったのだろうし、事実、運動部で活躍しているそいつが声を掛けたことで数名の友人は戻ってきた。
 だが、いじめられている、無視されている、そうしても構わない存在だと見下げられていると大勢の他人に知られるのはいやだった。その悪意ある価値観が伝染することを俺はもう身をもって知ってしまっている。
 受験本番を間近に控えた秋だったが、潔く塾を辞めた。そして、できれば県外の男子校を受験させてほしいと家族に頭を下げた(女子が絡んで面倒なことになるのもごめんだった)。
 事情を知っていただけに親は異を唱えず、片道二時間弱の距離の通学を許してくれた。部活もバイトも出来ない学生生活だが、絵に描いたような青春がおとずれなくても平穏であればそれでいい。大それた期待を抱かないよう、はじめから興味のないそぶりをしていれば自尊心を傷つけられることもなく、日々はじゅうぶんに穏やかで、楽しかった。
 ありがとう、と握られた掌の温度を思い出す。渉はすごい。あんなふうにてらいなく感情を誰かに伝えることも、距離を埋めるために一歩踏み出すことも俺にはずっとむずかしい。
 たった二日で、馬だか波長だか水だか、とにかくそうしたものが合っていると思っている。初めて会った気がしないと告げてくれた渉のほうでも、同じような気持ちを持ってくれていたらいいと思った。

 ブルーシート持ってきたよ、と渉が広げようとするのを止めた。紙袋から床拭き用のフローリングワイパー(ウェットタイプ)を取り出して見せる。もちろん本体だけでなく、シートも持ってきた。
「それ家から持ってきたの? マジで?」
「一回拭かないといつまでもほこりくさいだろ」
「早朝からお掃除道具持って登校する男子…うける」
 渉からすれば何の気なしに発したのであろう「早朝」という単語にうっかり肩を揺らしてしまう。
「働かざるもの食うべからず、だぞ」
 わざとピントのずれた返事をして、ほら、と教室からこっそり持ち出してきていた雑巾を渡すとたちまち顔が曇った。
「雑巾がけよりそっちがいい」
「お掃除道具はうけるんだろ」
「やだ、そっちがいい?」
 公平なじゃんけんの結果、ワイパーを渉に譲る羽目になった。
 四角い床を丸く掃く、を地でいく様にはツッコミを入れようか迷ったが、あまりに楽しそうにするものだから水を差すのも悪いという気になった。四隅を雑巾で拭くとみるみる白い布が汚れていく。うずたかく積もった黒の塊を取るのに夢中になっていくうち、次第にここが学校ということも忘れそうになる。
 天井から透明な糸を垂らして小さな蜘蛛がぶら下がっている。床だってどんなに拭っても黒い筋のような汚れがいくつも擦れている。それでも、この狭くてほこりっぽい踊り場にふたりでいることが、曖昧に心地よい。
 渉の柔らかな声がなぞっている音が、コダマの曲だと気づく。ああ、聴いてくれたのかとうれしくなった。少し鼻にかかって甘い、懐かしい気配のするハミング。ちょうどサビにさしかかるところだったので俺もそっとコーラスパートを歌ってみた。と、
「うっそ」
 渉が突然歌うのをやめて笑い出した。
「茜くん、…音痴」
「はぁ!?」
 心外すぎて上滑りした声が、高い天井に見事に反響した。俺の動揺がおかしいらしく、渉はひゃっひゃと引き笑いをやめない。
「いや音痴って面と向かって言われたことありませんけど!?」
「それはさあ、周りの人が優しかっただけじゃない?」
「…マジで?」
「マジで。ほら、リピートアフターミー」
 サビの歌詞を、渉が口ずさむ。輪唱の要領で追いかけると、確かに音の高さが思いきり違う。思わずくちびるを結ぶと、渉はにやにやと覗きこんできた。
「音楽の成績は?」
「……3」
「五段階評価?」
「………十だよ!」
「なんでそれで音痴じゃないと思うのさ」
 当たらないように気を遣いつつ雑巾を丸めて投げてみせると、振りかぶったワイパーの柄で弾き飛ばされた。湿って汚れた雑巾が、見事に俺の膝の上に命中する。
「……オイ!」
「あっはっは、ごめん! わざとじゃない!」
「わざとじゃなくてもやり返す!」
 雑巾をふたたび投げつけて突進する。かわして、追いかけて、古びた床に上履きがきゅっきゅとこすれる音が鳴った。両腕で捕まえて首をホールドすると、
「ギブギブ」
 と肘のあたりを叩かれる。お互いが本気じゃない小競り合いは、すぐに笑っておしまいになった。
「安心したまえ茜くん。自分で音が外れてるってわかる人は、練習したら音痴じゃなくなるらしいよ」
「余計なお世話だよ」
「ところで、選択なに? 美術音楽書道」
「……音楽」
「なんでやねーん!」
 だから何で突っ込みいれるときだけエセ関西弁になるんだよ。
「道具なしで楽だから。受験に音楽の成績関係ないし」
「ああ、なるほど~。手ぶらでいいもんね。僕も音楽だし一緒でよかった」
 さらりと言うのでかえってこっちが照れてしまう。
まだ三日の付き合いだが、渉はさりげない話運びで、深刻な部分には触れないよう配慮しながら相手の懐に入るのがうまい。誰だって、そうとわからないさりげなさで気を遣われて悪い気はしないだろう。
 それに比べて俺は、どうしても人との間に距離を横たわらせてしまう。生粋のものなのか、中学時代のトラウマなのかはわからないけど、誰に対してもネガティブな感情が先立って素直になれない。またよくない方向に思考がシフトしそうになりかける。
「茜さん目つき悪いですよ」
 すかさず渉が言うので、もしかして俺はよっぽど心が顔に透けて出やすいのだろうか?
「さては腹減ったんじゃない? 時間ないし掃除の続きはまたにしようよ」
「え、ああ、」
「今日は俺、朝あそこのパン買ってきた! 校門のさ、一本手前の道に、えんじののぼり立ってるとこ」
 ほら、こんな風に。
 隣でパンを頬張る渉の口元にはみ出たクリームがついているのが可笑しくて、なんだかどうでもよくなってしまった。

 中間考査を終えた六月半ば、例年より少し遅い梅雨入りが宣言された。今日は特に雨足が強く、窓から見下ろすグラウンドには大きな水たまりができていた。
 このごろはもう、渉も俺もクラスにすっかり馴染んでいて、クラスメイトと過ごすことも多くなった。誰かが持ってきた長編漫画の回し読みが教室内で一大ブームとなり、昼休みは体育館でバスケットをして遊んでいる。俺のドリブルが毬つきのようだと笑った奴らにボールをぶん投げるくらいには打ち解けてきた。
「加賀見ってぱっと見運動神経よさそうなのにな。すらっとしてるし」
「足も速いし」
「でも、ボール持つとあんたがたどこさなんだよね~」
「そんで、音痴な」
「いま音痴関係ないだろ!」
 一同、爆笑。おまえら明日こそボールぶつけてやる。
 そういう渉は運動の全般を器用にこなすので各種の運動部から勧誘を受け、そのどれもを断っていた。
「バイトしたいから無理」
 理由はいつもこうだった。試験の一週間前からファミリー向けの焼肉屋で働き始めた時は、転入早々成績捨てる気か? と正気を疑ったが、俺よりも数学と英語の点数は上だった。勉強の仕方まで器用か、ちくしょう。
 放課後になっても雨は止まなかった。
「渉、今日バイトは?」
「休み! 雨だとチャリ乗れないからラッキーだった」
 ならば、とどちらからともなく階段を上る。つるむ相手が増えても二人ともこの場所のことは誰にも言っていない。内緒にしような、と約束したわけでもないが自然とそうなった。
――放課後、俺らカラオケ行くんだけど楠本たちも一緒行かない?
 ある日、バイトが休みだと告げた渉に誘いをかけたクラスメイトがいた。息を吐くような自然さで渉が「ごめん、僕たち寄るとこあって」と断ったとき、口元がゆるみそうになるのを堪えるのに必死だった。もちろん約束なんてしていない。彼らを見送った後になって、
――ごめん。勝手に断ってよかった?
 などと不安そうに声をひそめるのでとうとう笑ってしまった。
――俺の帰る時間、気にしてくれたんだろ。
――それもあるけど…
 あそこで喋りたかったんだ、なんとなく、と遠慮がちに言う渉に「俺も」と返した。それ以来、渉のバイトが休みの日は最上階の踊り場で過ごすことがルーティーンになりつつある。
 今日も、こっそりと持ちこんだブルートゥースのスピーカーから微かな音量でコダマを流す。次の日には忘れてしまうようなくだらない話をしたり、曲を口ずさんだり。敷き詰めたブルーシートに寝そべって、背中が痛いと笑うことさえも、まさに秘密基地めいて気に入っていた。
 最上階のこの踊り場の、高い天井近くには小窓があり、雨粒がばらばらと硝子を叩く。時折、強い風がガタガタと窓を揺らした。ボーカルの、素朴で、景色に馴染むような声がふしぎと調和している。ランダムに再生した曲のタイトルに雨の文字がついていて、二人でおお、と声を挙げた。
「そういえば、来月新しいアルバム出るんだって」
「まじ? やったあ。予約しよ」
「そんで八月終わりらへんに、ライブツアーがあるんだけど。チケット取れたら一緒に行かん?」
「え、あー」
 てっきり快諾されると思い込んでいたので、逡巡した声音に俺の方が戸惑ってしまう。ちらりと気遣うような視線が寄越される。
「…夏休み、バイト増やそうと思って。でも、行きたいのは、ほんと。シフト調整できそうだったら、してみるから」
「増やすって…」
 これまでなんとなく避けてきた質問をとうとう口にするしかなくなり、仕方なしにたずねる。
「そんなバイトして、金貯める理由って、何かあんの?」
 言いたくないならいいけど、と付け加えたのは俺の弱さだ。渉の、口元を隠したとしても笑っていることがわかるようなやわらかいカーブの瞳がどうしようかな、と迷う色に揺れている。
「…引かない?」
「引かないよ」
 俺のほうが内緒にしていることが多いのに。口には出さず大仰にうなずくと、渉は観念したといわんばかりの深い息を吐いた。
「奨学金」
「え?」
「僕、奨学金もらってるんだけど、それだけじゃ…ああ、違うな、ごめん」
 話し出したかと思うとぶんぶんと首を振る。いっぽうで俺は「奨学金」という単語にならば成績が良いのもうなずけると頭の片隅で納得していた。一定以上の評価を得られないと打ち切られてしまうはずだ。
「かわいそう、とか思わずに聞いてほしいんだけど」
 という前置きに、気持ちがずしりと鉛のように重く落ちる。つとめて表情に出さないようにしながら頷いて続きを促した。雨はまだ止まない。
「…おれ、いま親戚の家に住まわせてもらってて。引き取ってもらう手続きがややこしくて時間かかって、引っ越しが新学期に間に合わなかったのはそのせい」
「引き取って…?」
「えっとね。話せば長くなりまして」
 自分の来し方を説明するのが難しいのか、めずらしく幾度も言葉を詰まらせ、時系列も行きつ戻りつしながらつむぐ。
「うち、親が結婚して、おれが産まれてすぐ離婚して。お…僕は父方のばあちゃんに育ててもらったんだよね」
 両親のどちらでもなく祖母が育てる不自然さを、そこで言及する気にはなれなかった。初めて聞く、雑ざった一人称についても。
「ばあちゃんと二人きりでけっこう楽しくやってたんだ。でももう年で、ちょっと認知症の症状とかも出てきたからこれはってなって…今は死んだじいちゃんの親戚の家に、高校出るまでって期限付きで居候させてもらってる。そんで、ばあちゃんの年金から病院代とか、俺の生活費とかは出てるけど学費は全部奨学金なの。ここ、学校の枠で成績上位者は無利子で借りられるんだよね」
 とはいえ何かと物入りだし、小遣いをもらっているが使うのにも気が引けるし、高校を出たら独り暮らしするための貯金もしたい。
「なので向こう二年は、成績を維持しつつ炎のアルバイターに身をやつして…」
「だから単語のチョイスな。何でそう特撮に寄るのよお前の語彙は」
 反射的につっこむと「そうそう、そんな感じで。いつも通りで頼みますよ」と渉がへらりと笑ってみせる。
「同情されると、しんどい」
 はっとした。
 風の音がやまず、時折窓の外で雷がひかっている。半袖のシャツ一枚では寒いかもしれない。折り畳みの傘と、ロッカーに丸めて置きっぱなしのパーカーを教室に取りに寄ってから帰ろう。俺は勢いよく立ち上がった。
 仁王立ちで、渉の肩を見下ろす。話している間にだんごむしのようにまるまってしまった背中。らしくない。
「…夏休み、たまには、遊ぼうぜ」
「うん」
「その前に期末だけど」
「ちょっと、それ今一番聞きたくないワードだよ!」
 にょきっと背筋が伸びて、隣にある俺の膝を叩く。気の利いたことひとつ言えない俺は、渉がいつも通り笑ってくれることにほっとしていた。
 わらうと歯が見えて、目じりが柔らかく細くなって、背中から陽射しがのぞくような優しい渉の笑顔が好きだった。もうその笑顔が単純な陽気さだけではできていないことを知ってしまった今でも、その引力は変わらない。

 夏休みに入ると、それまでの毎日がうそのように、俺の生活から渉がいなくなってしまった。課外授業は七月のうちに終了し、八月になるといよいよ顔を見ない日が続く。
 これまでの友達とはどんな風にやり取りしてたっけ。あまりに近くて、約束をしなくても数時間後にはいたから、物理的に会えなくなってしまった時のことを考える暇がなかった。
 宣言通り派遣登録のバイトを増やした渉は、時折「今日は単発で倉庫作業。筋肉痛やばい」「今日アイドルのコンサートスタッフした! でもずっと背中向けてたから何も見えなかった」と近況報告めいたメッセージを寄越す。もちろん返信は怠らないが、自分からはなかなかアクションを起こせずにいた。何でって、うっかりすると「いつ会える?」とか訊いてしまいそうになるから。
 コダマのチケットは難なく手に入れることができたが、それも告げられないままでいる。
「もう、お兄ちゃんまたチケット見てごろごろしてる!」
 ソファでだらけていると、掃除機をかけていたひとつ下の妹が睨んできた。夏休みになったとたん小遣い稼ぎに家事を手伝うようになったらしく、パートに出ている母の代わりにせかせかと動き回っている。
 冷房の利いた部屋の窓を勢いよく開け、とたんにむっとした熱気が室内をぬるくする。
「意気地なしだなあ、とっとと誘えばいいじゃん」
「なんだよ、知った風に」
「あーあ、自分の兄がデート誘うのにそんなにびびってるところなんて見たくなかったな」
「誰がデートか」
「違うの?」
「友達だよ、クラスメイト」
「なら何でそんなに毎日チケット見て悩んでんの? 友達ならよけいに気を遣うことないじゃん、変なの。ほら、ここ掃除しちゃうから邪魔だし部屋か外、行って」
 逆らってもろくなことにならないと知っている。
 おとなしくサンダルをひっかけ、携帯と財布だけを持って表に出るとさっきの比じゃない、熱風のような暑気が全身にのしかかってきた。晒された足の指が焦げついてしまいそうだ。夏の午後は長い。
 どこで涼もうかと考えているうちに、駅に着いてしまった。足の向くまま電車に乗る。財布に通学定期を入れていてよかった。
 家と学校のちょうど中間、特急列車なら一時間もかからない街へ向かうことにした。百貨店と総合病院と図書館と博物館が駅からの徒歩圏にずらりと揃っていて常に人通りが多い。図書館なら金もかからず時間が潰せると踏んでのことだ。
 今日はまだ、メッセージが来ていない。
 仲がいい友人は去年のクラスメイトにもいた。けれど、ここまで隣にいて気を許せる相手が初めてで、居心地が良すぎて、この先も見つからないんじゃないかと思う。中学時代の出来事がなくとも、俺は基本的にはのっけから自分の素を出して人と付き合うことができない。少しずつ探るように相手との距離を縮める俺を、身内は「もっと自分に自信を持てばいい」と励ましたけれどこればかりはどうしようもない。
 だからこそ、こんな風に踏み込んで付き合える相手は初めてで、渉を手放したくない――ひどく子どもじみた独占欲だ。
 駅のコンコースを抜けると、高い建物のガラスが太陽を反射させて照りつけ、視界のすべてがまぶしかった。手でひさしを作り図書館に向けて歩き出す。数百メートルの距離が異様に遠く感じ、自動扉をくぐると別世界のように涼しくてほっと息を吐いた。特に目当てがあるわけでもないので好きな歴史小説を読み返すかと書棚に回ると、予想外の相手に出くわした。
「お、青春少年。奇遇だな」
 数冊の本を抱えた都古が立っていた。
「なんだよ青春って」
「すっかり楠本と仲良くなって青春満喫してるみたいだからさ。言っとくけどばれてるからな、屋上前でおまえらがだべってんの」
「げっ」
「ま、大目に見てやる。先輩のやさしさに感謝しなさいね」
「先輩?」
 先生じゃなくて? 問い返す前にカウンターから冷たい目線が飛んできたので、二人して肩をすくめロビーへ向かう。休憩スペースの、丸テーブルがひとつ空いていたので椅子に座ると、都古が給茶機から冷えた緑茶を汲んできた。
「奢ってやろう」
「いや、タダじゃねーかよ」
 紙コップを一気にあおるとやっと体の熱が落ち着いてきた。都古の手元に積まれた本は分厚い洋書や専門書のようだった。
「こんなとこまで来るんだな」
「いや、俺んちこの辺よ。言ってなかった?」
 去年聞いたような気もするが、
「あんたの個人情報に興味ねーし…」
「はっは。じゃあ俺がOBっていうのも知らないんだ」
「OB? うちの高校の?」
「そう。で、お前が今入り浸ってるあの場所は、その昔俺が授業をサボるのに使ってた場所でもあるの」
「俺らよりたち悪いじゃん」
「あほ言え、俺は私物持ち込んだりしてないぞ」
 リラックスした様子の都古はいつもより若く見える。前髪を下ろしているせいか、それとも見慣れないラフないでたちのせいか。
「ところでお前、課題が終わらなくてしんどいの?」
「急に教師っぽいこと言うなよ。普通にやってるよ」
「ふうん。じゃあ何でそんな不景気な面なの」
 頬杖をついてやや上から落とす視線が、思いのほか穏やかだったので驚いてしまう。そういえばこいつも、距離をはかるのが上手なんだった。生徒をひとくくりにせず、一人ひとりにちょうど良い匙加減を知っている。
「……都古ってさ、友達に独占欲とか――やっぱなんでもない」
 途端ににやあと口角が上がったので、内心の評価を即座に撤回する。
「まさに青春小僧…」
 少年から小僧って、格が下がってないか。
「もういいよ、本借りたんだろ? とっとと帰れよ」
「自分ちみたいに言うなや」
 立ち上がったかと思うと、今度は本当に自販機でジュースを買ってきた。汗をかいたコーラのスチール缶を差し出されて素直に受け取る。重い甘さときつい炭酸に舌がしびれた。
「若いっていいねえ」
「…何かバカにされてる気分なんですけど」
「いや、…加賀見と楠本は、似てるよな。お前らどっちも、他人をよく見てるし空気も読める。それがどんな事情で培われたかは置いておいて、だ」
 どきりとする。担任だからある程度事情に通じてはいるのだろう――少なくとも、渉の生い立ちについては。
「あのさ…それ知ってるの、俺だけでうれしいって、不謹慎?」
 正直でいいね、と都古は笑う。
「いいんじゃないか。そういうのを嫌う奴もいるけど、お前は、あこがれる側じゃないかって思ったんだ」
 憧れ。なるほど、と腑に落ちた。
 同じように身構えていても、渉は嫌味なくするりと相手の懐に入って空気を和らげてしまう。他人の家庭に入り込む暮らしに順応するために身に着けた術だと思うと複雑だが、そう在れることを純粋に尊敬もする。誰もが狙ってできることではない。
「な、最初に言ったろう。変に構えるもんじゃないって。人間関係に線引きなんて本来要らないもんだ。どんどんぶつかれ青少年。そんでキューピッドの俺に感謝しなさいよ」
「あいつのこと、見といてやってくれよ。ちょっと心配だから」
「…何目線だよ」
「担任様目線だよ。俺にまで妬くな」
 言いたいことだけ言って、自称キューピッドはさっさと出ていってしまった。自動扉が開いた一瞬だけ、むせかえるほどの夏の気配が襲ってくる。
 俺もなんだか読書という気分でもなくなってしまい、ふらりと席を立つ。一番陽射しのきつい時間帯なので、さっき摂取した水分がぜんぶ汗で流れていきそうだ。八月も下旬だからか、空には入道雲と淡い秋の雲が入り混じっていたが、とにかく暑い。何しに家を出てきたんだかわからなくなってきた。
 歩調をゆるめて涼をとれるところを探していると、横断歩道の向こうから歩いてくる老女に目が留まってぎょっとした。長袖の、上下のスウェットは季節感を無視しているし、あの年代の女性が街中を歩くには軽装すぎる。
 なにより、似ていた。その顔立ちが。――渉に。
 友人そっくりのやわらかな笑みを浮かべながらも、何かを探すそぶりでせわしなく首を動かす老女にいてもたってもいられず、駆け寄った。
「おばあちゃん、えーと、おばあちゃん…こんにちは」
 驚かせてはいけないはずだと、掛ける言葉を考える。
「おばあちゃん、お名前、言えますか」
「あら、こんにちは」
「こんにちは。お、…ぼくは、加賀見といいます。お名前、教えてもらえませんか」
「わたし? 楠本と申します」
 やっぱり。ひどく丁寧なお辞儀が、この雑踏では違和感を顕著にさせた。
「ぼく、渉くんの友達です」
「あら。あらあら、そうなの。渉の」
「よかったら、どこか涼しいところに行きませんか」
 熱中症注意を促すニュースは今夏もやたらと流れている。来た道を戻り、渉の祖母の手をひいて図書館へと戻った。給茶機のコップで水を飲ませ、長椅子に落ち着いたのを確認してから携帯を取り出す。
 夏休み中迷っていた俺からの連絡を、こんな形ですることになるなんて思わなかった。
『はい!』
 コールが鳴るか鳴らないかのうちに応答があり、渉の焦りが伝わってくる。だからこちらも早口に伝えた。
「俺。茜だけど――いま、図書館にいるんだ。お前のばあちゃんと一緒に」
『すぐ行く』
 余計なことの一切を問わずに通話は切られ、ものの五分もしないうちに渉が息を切らして走ってきた。全身汗みずくで、グレーのTシャツはすっかり色が変わってしまっている。人材派遣会社のロゴ入りということは、きっと仕事を途中で抜けてきたのだ。
 ずっと、探していたのだ。
「ばあちゃん」
 自分こそ幼い迷子だったかのように心細い声で呟き、タイルの床に膝をついた。そこにも、顎や髪の先から、汗がぽたぽたと落ちる。
「あら、渉」
 渉の祖母はおっとりと立ち上がり、孫のしっとりとした黒髪を撫でた。
「どうしたの。疲れちゃったの?」
「…うん」
「そう。じゃあ、お家に帰って、休もうか」
「うん」
 ふたりは手を繋ぐ。渉の横顔があまりに不安そうで、俺も思わずといった拍子で彼女の反対側の空いた手を握った。ちいさくて、少しかさついている。
「あら、あら」
 嫌がることもなく慈愛に満ちた表情を向ける祖母の隣で、渉はもっと泣きそうな顔になっていた。
 渉が事前に連絡を入れていたのだろう。介護施設の名前入りのバンが駅のロータリーに停まっていた。このたびは、と運転手の男性と半泣きの若い女性が二人でかわるがわる頭を下げる。病院の付き添いにきていた施設の職員が目を離した隙に渉の祖母が居なくなってしまっていた、ということらしい。
 渉の祖母は車の後部座席でにこにこしている。
「僕は、もう戻らないといけないので。祖母をお願いします。詳しい話はまた明日させてください」
 動揺がまだ尾を引いているのか震える声で、しかし渉の眼光はするどくひかっていた。ただじゃおかねえぞ、と顔に書いてある。当然だ。例えば彼女が赤信号で飛び出していたら――考えるだけでおそろしい。
 バンがすっかり見えなくなると、ようやく渉がこちらを向いた。さっきまでその肩や背中のかたくなさに気圧されていた俺は、目の前で深々と頭を下げられ、しばし呆然としてしまった。
「――ありがとう。本当に…ありがとう…茜、いてくれて助かった…」
 きっと夏の間忙しくしていて伸びてしまったのだろう髪が耳から、また、ぱさりと落ちる。哀切のにじむ声にたまらなくなって、「たまたまだよ」と首を横に振る。渉の体中から発散する熱も、湿った髪も、ただただ必死で、いたたまれなくなる。
「本当に、偶然。ここに居たのも偶然だし、渉と、おばあちゃんの顔が良く似てたからもしかしてって思って声かけただけで」
「茜がいなかったら、もっと見つかるのは遅かったかもしれない。事故になってたかもしれない。僕にとっては奇跡よりすごい偶然だから、ちゃんとお礼させて」
 渉の表情が晴れないことが気がかりで、
「お礼とかいいから、仕事。戻るんだろ。そんで、明日さっきの人たちと話すなら俺付き添うし。大人が一緒な方がいいなら…」
 言い募ってもまだ顔つきがこわばっているので、きっと今一緒に住んでいる大人は当てにならないのだろう。
「ほら、都古呼んだっていいじゃん。担任だし。連絡俺がしといてやるから、大丈夫」
 つい先ほどまで一緒にいたお節介焼きの大人の名前を持ち出すと、ようやく頬がゆるんだ。
「先生はいいよ。大事にするのいやだし、茜がついてきてくれたら心強い」
「うん。また連絡ちょうだい」
「ありがと。夜、電話する」
 長く伸びた前髪に隠れてしまっていたけれど、目じりの落ちた笑顔はいじらしいほど安堵に満ちていた。。

 その夜、仕事から帰宅した母親に今日の一件を話すとひどく憤慨していた。社会福祉士の資格をもって役所に勤めている、ある意味適材適所の人物がこんなに身近にいたことを今の今まで忘れていた。
「私が一緒に行こうか? 施設も、その、渉くん? が今一緒に住んでる親戚のおうちにも」
「施設はともかく、家はなあ」
 かえって渉の立場が気まずくならないだろうか。しかし母親は妹の作った料理をてきぱきと温めなおしながらヒートアップしていく。
「おばあさんに何かあった時の連絡先が未成年の孫になっている時点で異常よ。決めた、もう決めた。絶対行きます。そう渉くんにも言っておいて」
 都古よりもっと面倒くさいババを引いてしまった。しかし渉にそれを伝えるとことのほか喜んでいた。電話が掛かってきたのは夜の十時を回っていて、普段なら眠い時間ではないだろうか。俺でさえ今日は疲れてしまい、早々にベッドに横たわってただ電話が鳴るのを待っていたほどだ。
『そういう専門の人に相談したいって、家でも話してたから助かる』
「あ、そうなの? 家の人って案外協力的な感じ?」
『協力的っていうか、まあ、…ふつう』
 てっきり羅刹の家みたいな状態で虐げられていると思っていたが。
『ばあちゃんと直接の親戚ってわけじゃないから色々できることも限られてるみたいで。本当は、僕の親が出てきてくれるのが一番いいんだけどどこにいるかわかんないからさ』
「ああ…」
 母方の祖母と暮らしたあとは、父方の親戚に引き取られたと言っていた。渉はしずかに息を吐き、
『茜、ごめんな』
 といつにない真剣さで謝罪をよこしてくる。
「ありがとうは受けつけるけど、ごめんはいらねえぞ」
『はは、男前』
「本気だっつの」
 タオルケットに潜って、ひとつ呼吸を置いてから切り出した。心臓が鼓動を打つ音が、早くなる。
「お前、一人で抱え込むなよ。…俺のこと、頼ってくれよ。たのむから」
『なに、どしたの』
「どしたのじゃないですよもう…水臭いんだよ。…友達、でしょ」
 その単語を口にするにはからだじゅうの勇気を使う必要があった。おかげで泣いてしまいそうで、渉のリアクションを待つより早く「じゃあ明日」と自ら通話を切る。
 クラスが同じだから、帰り道が一緒だから、それだけではなくて、もっと色んな感情を、景色を、悩みをわかちあいたいという意味で、渉はたった一人の俺の友達だった。
 友達だといって、いいんだよな?

 母親は渉のことをひどく気に入り、「しっかり気にかけてあげなさいよ」と何度も俺に言うようになった。
 行政が介入したことで、渉や、渉の祖母を取り巻く環境はいくぶんか改善されたらしかった。最初の挨拶にこそ俺も渉も同席したものの、そこから先は大人の話だと締め出されてしまったので詳細はわからない。
 しかし数日のうちには事が動き、渉が「ばあちゃん、家の近くのホームに移れた。おばさんたちも交代で面会できるって」と狐につままれたようなふわふわした声で電話を掛けてきたときは事態のスピードに驚いたものだ。母親に礼を言うと、大掃除もかくやというような面倒な家事のリクエストが降ってきた。この真夏に庭に置かれた納屋の整理とか、草むしりとか、何の苦行だ。渉を家に呼び寄せて手伝わせることにした。ごはんを食べにおいで、泊りにおいで、としきりに母が呼ぶのでそのほうが渉も足を運びやすいだろうと思って。
 曇りの日を選び、こまめに水分補給や休憩をしながら、根っこから引き抜いた雑草を積み上げていく。庭がすっきりする頃にはごみ袋四つがぱんぱんに膨れ上がった。何杯目かの麦茶を飲みほしたグラスが二つ、縁側に並んで水滴を垂らす。その隣に二人で腰掛け、曇天なりに色が移り変わる空をぼんやり見ていた。ああ、こんな空模様を歌った曲があったっけなと口ずさみかけ――はたと思い出す。
「渉さんや」
「なんですかな茜さん」
「ライブ。今日だわ。コダマの」
「……まじか」
 あんなに誘いたかったのに、一連の出来事のおかげですっかり頭の片隅に追いやられていた。慌てて着替え、支度を整える。
「出掛けてくる! 帰りは夜!」
 と台所に立つ母親に声を掛けると、
「ええ。渉くんが泊りにくるから奮発したのよ、今日。国産牛のすき焼き…」
「帰ってから食うから」
 それにしたって夏にすき焼きはないと思う。まして朝からの労働で、まだ体に熱がわだかまっているのに。
 ぼやいていると、渉は優しいので「僕、肉、うれしい」と片言でフォローを入れてくれた。
 会場はキャパ三百人程度の小さなライブハウスで、コダマがワンマンを催行するのはこのツアーが初めてらしかった。チケット番号順に入場する仕組みらしく、俺たちはずいぶん後ろの方だ。ツアータオルを買って並んでいると、リハーサルの音が漏れ聞こえてきた。
「あ、これ、僕好きなやつ」
「俺も」
 二人で小声で歌っていると、俺の前に並んでいた女子二人組が突然背中をまるめて大げさに咳きこみだした。タオルを口元に当てて苦しそうだ。
「茜、ドンマイ」
 肩を叩かれる。…やっぱりそういうことかよ。
 開演してからは無我夢中、あっという間の二時間だった。ほの暗いライトがふっと消え、客席からわあっと声が上がる。アルバムの一曲目にも使われていたインストが流れ、バンドのメンバーが一人ずつステージに上がる。一気に焚かれたストロボと同時に曲が始まる。拳を振り上げ、ジャンプし、体を揺らし、音に酔いしれた。音源とはまるで違う。生で聞く音楽にこんなにも温度や厚みがあることを俺はそのときはじめて知った。
 駆け抜けたステージ、惜しまれながら迎えたアンコールで、俺の一番好きな曲――アルバムには収録されていない、シングルのカップリング――のイントロが奏でられた瞬間、熱のこもった瞳からぼたぼたと涙がこぼれていった。この曲を、今、ここで、渉と並んで聴けることがそれこそできすぎた奇跡のようだった。曲のあいだじゅう、会場は透きとおったオレンジとブルーのグラデーションに満ちていた。夜のはじまりの色。一日の終わりの色。朝焼けの、世界のはじまりの色。夕焼けが街を埋め尽くす色。景色がまぶたに浮かんでは消える。
 音楽にのせて揺らめく、きらきら光るライトの小さな粒子まで今なら掴めそうだ。握った拳を、掲げる。何度も。何度も。
 セットリストのすべてを終えてメンバーが捌けたあと、呆然と隣を向くと、渉も同じように顔をくしゃくしゃにして泣いていた。おかげで帰りの電車では二人とも目を真っ赤にして気恥ずかしい思いをした。
 帰宅すると十時を回っていたので、母親が素麺をゆがいてくれた。
「すき焼きはまた食べにおいで」
「はい」
「すいか切ってあるから。お母さん寝るけど、冷蔵庫から出して食べてね」
「ん。ありがと」
「ところで二人とも、目が腫れてるわよ。ちゃんと冷やして寝なさいね」
 俺はむっつりと黙り、渉はくすぐったそうにはい、と返事をした。

 初めて体感したライブのインパクトはしばらく尾を引き、二学期が始まっても俺と渉はコダマに夢中だった。誰に言っても「知らない、聞いたことない」と言われるマイナー加減がかえって火をつけたともいえる。
 渉のバイトは週四日のペースに落ち着き、月水金の放課後は踊り場で過ごすのが常になっていた。
 その日のホームルームの話題を引きずり、来月の文化祭さ、とつぶやいた。
「体育館で有志の出し物あるじゃん。コダマ布教してみる?」
「バンドってこと? 茜、楽器できたっけ」
「できませんけど」
「だよねー。音楽3だもんね。じゃあ歌う?」
「そうね、音楽3だから歌えませんね。っていうか一学期4だったからな、舐めんなよ」
「ふふ。僕、9」
「特に訊いてませんけどもー」
 リラックスしきった渉がブルーシートの上を転がって大の字になる。
「あのさ、別にいいかなって」
「うん?」
「僕と茜が好きだから、それでいいよ。コダマの良さは二人でわかってたらいいんだ。なんかさあ、売れすぎちゃうとさみしいじゃん」
 しずかに瞳を閉じてわらう渉を見下ろす。コダマの最新のシングルが流れる。旅に出る歌だ。何もかもを故郷に置いて、身一つで飛び出して。手放したものたちのことを思い出すふりをして、そのくせ本当はずっと気にかけている、主人公の強がり。
「もし僕がいつかこんな風に旅に出ても」
「うん?」
「秘密基地のこととか、茜のこととか、しょっちゅう思い出すんだろうなあ」
「変なフラグたてるなよ…」
「いやほんとに。忘れたくても忘れらんないその歌声」
「またそれか!」
 笑い声が天井に反響する。曲は流れ続ける。完璧に穏やかに、日々は過ぎていくはずだった。
 進学はしないと決めていた渉と、付属の大学へエスカレーターで上がると決めていた俺は来年も同じクラスになることが確定していて、偏差値の高い大学を目指す奴らのぴりぴりした空気とも無縁だった。
 なのに、どうしてだろう。
 秋の気配が濃い影が落ちて、渉の表情がよく見えなくなったその瞬間に、心のどこかがざわついた。渉と、旅、という単語がなんだかとても近しくて似合ってしまうと感じたからだろうか。
「……わたる、」
 うん? と穏やかな声が返ってくる。大丈夫。
「そろそろ、帰ろう」
 だから俺も笑いかける。逆光で見えないけれど、笑顔も、まるい瞳も、いつも通りだと信じて。

 メッセージを受け取った夜は、みぞれ雑じりの雪が降っていた。あの日のことを、俺はきっと一生忘れることができない。

『あかね』

 たった三文字の、まして自分を呼ぶだけのひらがなに、これほど胸をかき乱される日がくるなんて予想もしていなかった。
 冬休みに入り、確かに渉の顔を数日見ていなかった。終業式ではいつも通りだった――ように思う――本当に? 自分の記憶に自信がなくて心底苛立つ。
 やみくもに家を飛び出して、電話を掛けた。うんと長いコール音のあとにやっと応答がある。早い呼吸と、かすかな電車の音。アナウンス。どこかの駅にいるらしい。
「渉、どうした。今どこ。すぐ行くから、動かなくていいから、場所だけ教えて」
 わけがわからないなりに必死に言葉を掛ける。少し間があって、駅名が告げられる。学校からも渉の家からも遠いその場所を復唱し、電車に飛び乗った。そのあいだも電話は切らずにいた。料金なんて知ったことか。
 移動している間にみぞれは雪になり、この地域では滅多にないほどの吹雪になった。目的地に降り立つころには風がびゅうびゅうと吹き、視界はまさに白銀だ。その小さな駅舎のベンチに縮こまっている渉を見たときは肝が冷えた。なぜか制服姿で、コートさえ着ていない。
「渉」
「…あかね、…」
 近づくと、くしゃみをひとつした。巻いていたマフラーを差し出す。力なく受け取った手はそのまま膝の上に落ちていったので、仕方なく俺がぐるぐるに巻いてやった。
「どうした」
 幾つかのことを予想しながら、膝をついて顔を覗き込む。すん、と鼻を鳴らして
「ばあちゃんが」
 とだけ口を動かし、また黙ってしまった。氷のように冷たい手を上からつよく握ってやる。ぴくりと指が動き、そこでやっと俺が来たことを再確認するように顔が上がった。
「…ばあちゃん、もう、おれのこと、わかんなくなっちゃったんだ」
「うん」
 まただ。渉は不安定になると、一人称が変わる。
「おれのこと、父親の名前で呼ぶんだ。そんで、すごい睨んで、もの、投げたりして。それでお前のせいで娘も孫も不幸になったってすごい怖い顔して怒鳴るんだ。孫っておれのことなのに。ちっさいころからずっと一緒にいたのに」
 祖母とあんなに顔が似ているならきっと渉の面差しは母親に似ているはずだが、ままならないものだ。
「秋ぐらいから、調子が悪くなって、もう、歩けないし、布団の上でどんどん痩せて」
「うん」
「そんで、おととい、亡くなった。今日、火葬が終わった」
 ぞくりと背中が粟立つ。予想していたいくつかの、いちばん考えたくなかったパターンだった。
「茜のお母さんにもお世話になったし、本当は連絡すべきだったんだろうけど、ごめん」
 こんな時まで誰かを気遣おうとする。うちのことなんか気にすんな、と言ってやりたかった。連絡なら母親じゃなくて俺だろう、とも。結局一人で抱え込みやがって、とも。だが責めるようなことを言えるわけもなく、代わりに手のひらに力を込める。
 それだけでも足りない気がして、おそるおそる、抱きしめた。渉は凍りついてしまったように身じろぎ一つしない。
「役所の人が、何か、どうにか調べて母親に連絡とれたらしいんだけど。知らないって。そんな人知らないし、息子なんていませんって言ったんだってさ」
 もう喋らなくていい、と腕に力を込める。
「…茜、僕、ひとりぼっちになっちゃった」
 胸に額をあずけさせると、やっと、というように泣き出した。ベンチに小さな紙袋が置いてあって、骨壺だろうとわかる。普段はなじみのないこの駅は火葬場の最寄りだった。
「…親戚の人は?」
「今日は、僕ひとり。…ばあちゃん、父親の親族、罵倒しまくってたから…結局最後の方はもう縁切れてた感じ」
 涙声でこんなことを言わせた自分を、いやそれ以上に、今日にいたるまでひとつも察してやれなかったことを恥じた。きっと家でも肩身が狭かったに違いないのに。
 駅舎にいた係員が俺たちに声を掛ける。
「君たち、雪でもう電車が止まっちゃうよ。待合室に入りなさい」
 悪天の影響が交通網に及んだらしく、終電よりずいぶん早い時間だが電車は路線の途中でストップしていた。
 待合室もすきま風は入るが、ストーブと暖房のお陰でこわばったからだが少しずつほぐれてゆく。気遣わしげな駅員に「もうすぐ親が迎えに来ます」とうそをつくと安心したようにうなずいた。
「よかった。電気は点けたままでいいから、気を付けてね」
 長靴に履き替え歩き出した彼は、どこかでタクシーを捕まえるのだろう。無人の駅に取り残され、凍てついた世界にふたりきりのような錯覚に陥った。ストーブを正面に置いて、木のベンチにふたり並ぶ。
「…帰りたくないなあ」
 渉が硝子扉の外をうつろに見つめながらつぶやく。
「ずっと、ばあちゃんが死ぬのが怖かった。子どもの時からずっと。…だから今、悲しいけど、ほっとしてる…」
 気を抜くと吹雪がさらって消してしまいそうな小さな声だった。
「でも、あそこに帰ったら、またおれは、家族にいらないって言われた人間に戻っちゃう。もうやだ。どうせひとりなら、ひとりになりたい。はじめから、ただのひとりに」
 後頭部をがんと殴られたような衝撃だった。心臓が押しつぶされるように痛い。
 渉の繰り言の意味を、俺は、誰が分からなくとも俺だけはわかる。
「そうだよな。…いらないって思われた奴だって、誰かに思われるのは、いやだよな」
 渉は弾かれたように顔を上げ、俺をまじまじと見つめる。
「一緒に行こう。俺なら大丈夫。俺は、そんな風に思ったりしないから」
「――茜?」
 風の音が少し弱くなった気がした。もう一度、ぞっとするほど冷たいからだを抱きしめる。ストーブがちっとも役に立っていない。あやすように背をさする。
 腕の中から渉が俺を見上げる。視線を交わすと、しずかに、短いキスを交わした。そうする以外にないような気がしたからだ。ストーブが、ひとつになった影を揺らした。
「渉。駆け落ちしようよ」
 陳腐な台詞を、しかしほかに思いつかなくて声に出すと、渉はふふ、と笑った。
 渉はずっと、頑張ってきたに違いない。自分のなにひとつとして、誰かの心に影を落とさないよう、気を張って過ごしてきたのだ。そろそろ捨てたって許されるんじゃないだろうか。
「じゃあ、雪が止んだら出発しようか」
「うん」
「それまで、ちょっと寝る」
「うん」
「北と南、どっちにする?」
「じゃんけんで決めよう。一発勝負で」
「あいこだったら?」
「東」
「はは、適当だねえ」
「いいんだよどこでも。二人なら」
 どうせ地球は丸いんだから、行きつくところは同じだよ。
 渉がようやく見せた笑顔は、俺を安心させるには十分な力を持っていた。子どもの冒険よりももっと幼い計画を小さな声で話すうち、泣いて体力を消耗していた渉が先に寝息を立て始めた。とたんに俺も全身から力が抜けていく。折り重なるようにして眠ってしまった。

 目が覚めると、視界一面に雪が積もっていた。渉を起こして、ふたりでそうっと外に出る。荒れていた空がうそのように雲ひとつなく、澄み渡る夜空に星がうつくしく光っていた。夜明けが近い。始発の電車がおとずれるまでのわずかな時間、静寂に満ちた群青色の世界に俺たちはただふたりきりだった。渉のまつげが凍っていて、まばたきするとしずくになって流れていった。できすぎるほどに綺麗なワンシーンだ。
「僕…コートとってこなきゃ」
 真っ白な息を吐いて、渉が笑う。踏切が鳴り、世界がいっせいに動きだした。
「茜、待っててくれる? すぐ戻るよ」
 どうせなら、と俺は悔しくなる。どうせならもっとじょうずにうそをついてくれよ。騙されてやるからさ。
「…待ってるよ」
 うなずくと一瞬顔をゆがめて、昨日俺が巻いてやったマフラーを握りしめる。
「これ、」
「寒いから早く帰ってきて、返せよな」
「……うん」
 指がわなないて、あと数秒でも渉が背を向けるのが遅かったら、間に合わずに泣いてしまっていたと思う。
 東の空がゆっくりと光りだした。やがて電車が出てゆく。ベンチには、渉の携帯が置いてあった。
「…渉のあほ」
 俺は、本当に駆け落ちしたってよかったのに。
 お前がひとりになりたいのと同じくらい、俺はふたりでいたかったのに。
 両手で握りしめた携帯を、額に押し抱くようにして泣いた。遠慮も何もなしに、わんわん泣いた。この声が風に乗って渉に届いて、戻ってきてくれればいいのにと願ったけれど、実際にやってきたのはまさかの母親で、渉の最後のお節介が恨めしくてまた涙が出た。

 俺の友達は、いなくなってしまった。

 三年間を過ごした学舎が、まさか「旧校舎」と呼ばれじきに取り壊されることになるなんて思わなかった。
 春休みの間に工事を開始し、二年後には完全に撤去されてしまうらしい。
 卒業証書を片手に、分厚い扉の前に立っていると誰かが階段を上ってくる音がした。ゆっくりと振り返って肩を竦める。
「よ。卒業おめでとう」
 さっき教室で別れたばかりの都古だった。
「期待したか?」
 誰の事かなんて聞くまでもない。
「しないよ」
 退学届は郵送で届いたのだという。そのときに記された連絡先も、いくつかの書類のやり取りが終わるともう宛先不明になってしまったらしい。
「最後に、餞別をやろうと思って」
「餞別?」
 都古が放り投げたものを反射的にキャッチする。古びて錆臭い、小さな鍵。
「え、これ、ここの?」
「おう。俺が卒業してから鍵が変わってなけりゃ、それで開く」
「いいの?」
「もう生徒じゃないし、どうせ壊れる建物だし」
 好きにすれば、と歌うように都古が笑う。何度渉がヘアピンで試みても、解錠することのなかった扉。
「せんせい」
 踵を返した背中へ呼びかける。
「うん?」
「お世話になりました」
 国立進学コースの英語の授業を担当しているはずの都古が、三年に持ち上がっても俺のクラスの担任だったのにはわけがあるような気がしていた。去年の冬、ずいぶんと荒れて多方面に心配をかけた自覚はある。
「またな、加賀見」
 背中が見えなくなるまで見送ってから、改めて手のひらの鍵を矯めつ眇めつする。
――二年あったらいけるかもよ。
 本当にいけてしまった、と苦笑しながら鍵を回すと、あっさりと南京錠は音をたてて外れる。扉にぐっと手をかけて押すと、外の光が隙間から射して踊り場を明るくした。それだけ確認して、すぐに扉を閉める。
 鍵を差した南京錠ごとポケットに突っ込み、階段を降りる。卒業証書はブルーシートの上に置いていく。
「卒業、おめでとう」
 本当ならそう言って笑いあいたかった。だから、ここに置いていく。ブルーシートも、スピーカーも、掃除道具も、何もかも。
 そのかわり鍵だけは持っていく。いつかまた会えたら自慢してやると心に誓う。多少反則技だけど。
 そうして俺の高校生活はあっけなく幕を閉じた。

 どこにいても、誰といても、季節は等しく巡る。
 四年間はめまぐるしく過ぎていった。
 大学に通う間に、コダマはライブハウスの規模を一回り大きくした。清涼飲料水のタイアップに起用されたシングルがヒットしたが、その後CDの打ち上げは次第にトーンダウンしているようだ。
 ただ、あの一曲だけは今も有線放送やシーズン毎の音楽番組で流れるのを耳にする。
 俺はというと日本史の教師として母校に就職して半年が経った。五月も半ばになると、さすがに「先生」と呼ばれることには抵抗がなくなってきたが、生徒だった頃に「先生」だった人たちが同僚だということにはまだ慣れない。
「加賀見、資料室の鍵持ったままだろ。返しとけよ」
「あ、すみません」
 あの頃敬語なんて使ったこともなかった都古に対してさえ丁寧な口調を心掛けている。社会人はきゅうくつだ。
 もうひとつ慣れないことといえば、
「茜ちゃーん! 中間のヤマ教えて」
「あっあたしも!」
「出題者にヤマ張らせる馬鹿がいるかっ!」
「だーってこの連休もずっと部活で忙しくて勉強どころじゃなかったんだもん。一年しかいないから大変なんだよ」
 校舎に女生徒がいることだろうか。
 少子化のあおりを受けた学校法人が経営合併を行い、近隣の男子校は殆どが共学になった。うちの高校も例外れはなく、今年度、初めて女子の入学を受け入れたところだ。
「茜ちゃん、机に何つけてんのこれ。鍵? 南京錠?」
「はいはい、いいから触るなって」
「ケチ。あっそういえば、茜ちゃん知ってる?」
「知らん」
「まだ何も言ってないし! あのね、ちょっとイケメンの用務員さんが赴任したんだって。うちのOB」
「用務員?」
 そんな話は初耳だ。聞き返すより先に別の女生徒が「違うよ」と訂正する。こちらが口を挟まなくても勝手に話題が転ぶのは時に有難い。
「正式な用務員の採用前の、バイトって言ってたよ。炎のアルバイターですって。うけるよね」
「炎のアルバイター…?」
 待て待て。その古臭いネーミングセンス、心当たりがいやというほどある。
「なあ、そのアルバイター、今どこにいんの」
「え、さっきそこの廊下でミヤコちゃんと話してたよ」
 勢いよく立ち上がったせいで机の上が雪崩を起こしたが、構っていられない。はっと思いついて、南京錠を握りしめる。びっくりして固まっている女生徒たちにもごめんなと謝りながら、
「サンキュ。あのな、要覧から何問か出すからちゃんと見とけ」
「えっもうちょっと具体的に…」
「駄目、礼はここまで」
 お礼? と首をかしげる相手に返事をする余裕はもうなかった。職員室を直角に飛び出し、咎められない程度の小走りで廊下を急ぐ。額にじんわり汗がにじんだ。突き当たりを曲がった瞬間、身構える間もなく、もうそこに、いた。
「加賀見先生」
 都古が先に顔を上げる。その正面、俺に背中を向けていた奴が、ゆっくりと振り返る。
 記憶よりずっと髪が短い。そのせいで、いつのまにか空けたらしいピアスの穴が目立つ。痩せて頬の丸みもとれていた。白のシャツが相変わらずよく似合う。
「どうも。炎のアルバイター楠本です」
「……に、日本史の加賀見、です?」
 都古が「何言ってんのおまえら」と心底あきれたように言った。まったくだ。
「加賀見、案内してやって。新校舎は初めてだからな」
 と言われても、何から話せばいいのか、頭が回らない。赴任当初に自分が案内されたコースを辿って人気のない廊下を歩きながら零れ落ちたのは、
「…ピアスとか、空けたんだ」
 などという非常にくだらない一言だった。久しぶりでも元気だったかでも置いていきやがってでもない。実にくだらないんだけど俺は結構打ちのめされてしまっている。五年間ぶんの知らない渉が、その穴一つに集約されているような気がしてたまらなくなった。
 すると渉の方も眉間にしわを寄せ「それを言うなら、茜くんこそ」と唇を尖らせる。
「オシャレメガネとか掛けちゃってさ。女生徒に囲まれてるしさ」
「目つき悪いから教師になるなら伊達メガネ掛けろって都古に言われたんだよ。っていうか、お前、見てたなら声かけろよ」
「へえ、そんなことまで都古先生に従っちゃうわけ? 無理でしょ。僕基本的に職員室には入れないから。しょせんアルバイトですし」
 大人になったのは見た目だけで、学生の時と何ら変わらない言い合いをしながら歩く俺たちを何人かの生徒がくすくすと笑いながら振り返る。
 自然と、階段を上っていた。当然もうあの場所はないし、だいいち新校舎には屋上そのものが存在しない。それでも、上りたかった。
「…茜、怒ってる?」
 渉がぽつりとつぶやいた。黙ってじろりと睨みつけると、堰を切ったようにしゃべりだす。
「あれから、ガチで色んなとこ行ったんだ。チャリ買って、とりあえず寒かったから南の方に下って。暑くなったら北上して。災害復興のボランティアしたり、飲食店でバイトして調理師免許とったり…あ、弁当作って路上で売ってたら意外と評判良くてさ。ローカル番組に出たりしたんだけど、やっぱこっちじゃ見てないか、はは」
「……そんで?」
「…都古先生から、茜が教採受けるって聞いたから、…五年待たせたけど戻ってきた」
「はあ? あいつ、俺にはそんなこと一言も」
 ぐるりと振り返ったタイミングで放課後のチャイムが鳴り、生徒の下校を促す放送が流れだした。三段差ぶんの距離から、渉が俺を見上げる。
「うぬぼれていいのかな」
「何が」
「ここに、就職したのって、僕を待つため?」
 違うよ、と強がるには、渉のはにかんだ顔があまりに昔のまますぎた。僕はね、と話すやわらかい語調のうらに、確かに横たわる年月と、変わらないもの。
「どこで何してても、気づいたら茜のこと考えてた。好きになった景色は見せたかった。怖い夢を見たときは、あのときの茜の大丈夫だよって声を思い出してた。さみしくなったときは、いつか茜に会いに帰ろうって思ってた」
 新校舎の踊り場には窓が填め込んである。まぶしいほど鮮やかなオレンジの西陽が足元にたゆたっている。その上に立つ俺たちの影も、夕陽に泳ぐ魚のように揺れていた。
「…俺は、」
 南京錠を、渉の心臓のあたりに押しつける。
「俺は、ずっとお前だけが特別だった。今お前が言ったことなんて、こっちは五年前からずっとだよ」
 渉はたしかに南京錠を受け取ると、「これ、あそこの? 踊り場?」とふるえる声でたずねた。
「二年間で開けてやったわ」
「うっそでしょ。ヘアピンで?」
「…違うけど」
「ははあ、ズルしたな」
 からかう語尾が揺れている。すっかり錆びついた鍵をお守りのように大事に抱える渉が浮かべている風景は、きっと今の俺と同じだ。
「もー…もうさ、なんだっていいんだよ」
 すん、と鼻を鳴らす。
 あの日言えなかったことを伝えるために、口を開いた。
 ありふれた、たった一言を。